BRIDGE ~世界に広げよう日本の心~

右でも左でもないど真ん中.石井希尚(Marre)のブログ

パラオの大和魂① 植民地だったのにどうして親日なの?

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天皇皇后両陛下が、戦後70年の節目にパラオを慰霊のために訪れたことで、多くの人がパラオや、日本軍が玉砕したペリリュー島の戦いに興味を持った。
とてもいいことだと思った。

でも、今のパラオがものすごい親日で、しかも当時は日本の委任統治領だったと知ると
「日本の植民地だったのにどうして親日なの?」なんて不思議がる人がいまだに多い。
そういう訳で簡単におさらいしてみよう。

◼︎パラオは植民地じゃなかったの?
まず、パラオが日本の植民地であったと認識している人が多いがこれは間違いだ。
日本はパラオを植民地にしていない。
正確にはパラオは日本の委任統治領」だった。
「え?委任統治領って植民地でしょ?」
なんて言う声が聞こえてきそうが、大違いだ。
植民地というのは、ある国が他の国に武力で侵略し、その国を勝手に自分たちのものにしてしまうことだ。
しかし委任統治領というのはこれとは違う。
これは、第一次大戦後、敗戦国の領土や植民地を統治するために、国際連盟が別の国に統治を委ねた統治形態のことを言う。
つまり日本は、パラオを植民地にしたのではなく、国際連盟によって「パラオを統治してください」とその統治権を委任されたということだ。
なぜそうなったかと言えば、日本は第一次世界大戦のとき連合国側にいたからだ。
ドイツ帝国は、オスマン帝国ハンガリー帝国と組んで連合国と戦った。
日本は、敵国であるドイツの植民地だったパラオを攻め、ドイツを蹴散らしてパラオをドイツから解放する。
そして戦争は終わる。
連合国側の勝利であった。
日本は戦勝国の一つとなったわけだ。
そして終戦後、講和の具体的な内容を取り決める国際会議が開かれる。
これがパリ講和会議だ。
そこで、賠償金や、国境、領土など、多くのことが話し合われ、具体的に決めらた。
これをベルサイユ条約」という。
ドイツは、この条約により、植民地をすべて放棄しなければならなくなった。
そしてドイツが放棄した植民地は、『国際連盟が指定する国が統治する形』へと移行することが決められた。
これが「委任統治」である。
そして、国際連盟パラオを日本の委任統治領にすることを決める。
かくして講和会議の翌年、1920年、日本は国際連盟から委任をうけて、パラオを統治することになったというわけだ。
まずは、この流れを正しく理解しておこう。

◼︎権力の空白が混乱を生み出す
戦後、権力の移行がスムーズに行われないと、その国は大混乱する。
イラク戦争で、アメリカがフセイン政権を倒してしまったから、イラクは内線状態に陥ってしまった。
アメリカ軍が去った後のイラクの歴史は混乱の一言に尽きる。
その結果、今はあのテロ集団イスラム国が大暴れしている。
シリアも状況は同じだ。
権力の空白があると、必ずそこを狙ってどこかの国が入ってくる。
権力が存在していても、統治機能が盤石でなければ、内戦が勃発する。
それは、歴史を見なくても、昨今のニュースを見れば明らかなことだ。
無政府状態という言葉をよく耳にするが、一つの国の権力が倒れたら、その次を誰がどうするのかは限りなく重要な問題だ。
だから、ドイツの植民地から脱したパラオが、無政府状態にも内戦状態に陥らず、他国からの不当な侵略の憂き目にも遭わず発展していくためには、それなりの力を持った国の統治力による秩序が必要だ。
国際連盟はそのために日本を選んだ。
これは、侵略が目的ではなく、統治される国の安定と発展、将来の独立をサポートするめのもので、統治を任された国は、そのために尽力しなければならない。
これが委任統治だ。

◼︎責任を果たした日本
パラオは、戦争という不条理の歴史の流れに翻弄された。
しかしその結果、1920年日本の委任統治領になった。
そしてこれが、パラオにとっては幸運だったのだ。
なぜなら、日本は委任統治を植民地とはき違えることなく、そもそもの目的どおり、責任をもってパラオの発展のために尽くしたからだ。
その統治の仕方が素晴らしかったので、パラオの人は今も「日本時代は素晴らしかった」と思い出す。
日本時代がなければ、今のパラオ共和国はない。
だから、パラオの人々は、今も日本に感謝しているというわけだ。
これは、日本人が誇るべき本当の歴史で、実際のところ、
パラオのために日本がなしたことは本当に素晴らしかったのだ。