中村屋のカレーを食べればバングラディッシュがわかる!
日本人です!撃たないで!!!
そう叫ぶ声は無視され、無残にも首を切られたり、銃で撃たれたりして殺されたという。
ほんとーに胸がいたむ。
ネットでは、
「日本人だと言えば殺されないと思ったのか」とか、
「かえってイスラム教徒でないことを公言するようなものだから愚かなことだ!」
など、様々な意見が飛び交っているよね。
毎年8月6日には、バングラデシュ中で原爆被害者追悼行事が行われるほどなんだよ。
JICA(国際協力機構)を通して現地に貢献している人なら誰もがそれを知っている。
だから、犠牲になった方がとっさに「私は日本人!」と叫んだことは、そのお国柄を考えれば、当然のことだったかもしれない。
今、日本人と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上にバングラディッシュの人々が心を痛めている。
ネットにも「日本の皆さん、ごめんなさい、許してください」と悲痛な叫びが溢れている。
●そっくりな国旗
バングラディッシュの国旗のデザインは日の丸にそっくりだ。
パラオ国旗と合わせて日の丸三兄弟などとも言われているよ。
彼女はこういった。
『初代大統領のラーマンが独立に伴う1972年の国旗制定時に日本に魅せられ日の丸のデザインを取り入れた』
多くの犠牲によってついに勝ち取った独立。
その国を表す「国旗」を、日本にならって日の丸そっくりにしたなんて、そこにある日本へのリスペクトはどれほ大きいんだ‼️
それほどまでに、初代大統領が日本に魅せられたのは、一体どうしてだろう?
●謎を解く鍵が新宿にある!
それは『中村屋のカレー』なのだああ!
中村屋には看板メニューがある。
それが、中村屋が昭和2(1927)年に発売した「純印度式カリーライス」。
このカリーライスを考案したのは、ラス・ビハリ・ボースというインド人である。
彼は明治19(1886)年インド ベンガル地方生まれのインド独立運動家だ。
このカリーライスを考案したのは、ラス・ビハリ・ボースというインド人である。
彼は明治19(1886)年インド ベンガル地方生まれのインド独立運動家だ。
知ってのとおり、当時インドはイギリスの植民地だった。
インドは1765年からイギリスの植民地だったんだけど、それ以前の1510年からポルトガルの植民地だった。
ヴァスコ・ダ・ガマ以来、実に400年以上も白人国家によって搾取されてきたんだ。
ビハリ・ボースは、民族自存のために、
そして、このボーズ、大正4(1915)年6月8日に東京にる。
彼は箱根で、日本に滞在していた中国の革命家「孫文」を訪ね
たんだ。当時、日本は多くのアジアの独立運動家たちに影響を与えていた。
いや実質的に、日本がアジア諸国の独立運動家たちを育てたと言っても過言ではない。
そしてまたビハリ・ボースも日本にやってきたといわけだ。
日本が日露戦争に勝利して以来、植民地化されていたアジア諸国にとって、日本こそが希望の星だったんだ。
日露戦争こそ、1500年代から続いてきた白人による有色人国家支配の構図に終止符を打った歴史的大転換点なんだよ。
これは世界が認めることだから絶対におさえておこう!
これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア民族は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至った。
大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた。
7月28日に孫文を訪ねたビハリ・ボースは、独立のための戦いを熱く語り合った。
そして彼は、武器をインドに送るため上海に渡る。
東京在住の同志たちが多量の武器を上海に送り、それを秘密裏にインドに運ぶ。
イギリスに知られたら大変なことだ。
イギリスに知られたら大変なことだ。
すべては極秘。
ところが、この船がイギリスに見つかってしまう。
そして、反英活動家ボースが密入国していたことが発覚してしまったんだ。
これはまずいと、ボースは追及の手を逃れ、なんとか日本に舞い戻る。
と・こ・ろ・が・だ…
当時の日本はイギリスと日英同盟を締結していた。
実はこれはすごいことで、天下の大英帝国が、世界で初めて結んだ黄色人国家との「同盟関係」。
それが日英同盟なんだよ。
それほど、日本は世界の強国となっていたんだ。
だから日本としては、反英活動家を野放しにしておくのは、同盟国としてまずい。
そこで、ボースに国外退去命令を下したんだ。
大正4年の11月28日のことだ。退去期限は12月2日。
いよいよ期限を翌日に控えた12月1日の夜、ボーズは官憲の目を眩ますために変装して逃亡する。
そして、逃げこんだ先が『中村屋』だったんだ。
この中村屋の相馬夫婦は偉かった!!
それから3カ月間半も、命がけでボースを匿ったんだから。
これは日本政府に背くことだ。
でも、相馬夫婦は、独立の志に感銘し、同じ有色人種として想いを共有した。
日本だって、ロシアという白人国家の脅威の前で、決死の覚悟で戦った国だからね。
中村屋を離れて後、ボーズは17回も隠れ家を転々としながら、逃亡生活を続けたわけなんだけど、このとき、彼を支えたのが相馬夫婦の長女「俊子」だったんだよ。
いいぞ俊子!!
彼女はボースとの連絡役を務め、心身ともに極秘裏に彼を支え続け、なんと大正7(1918)に二人は結婚したんだ!
まさに禁断の恋ってやつだな。
ボースは晴れて自由の身となり、日本に帰化する。
そして一家は、中村屋の敷地内に新居を建てて生活を始めたんだ。
ばんざーい!!
ところが、なんと翌年、俊子は二人の子を遺して、肺炎で亡くなってしまうんだ。
26歳の短い生涯だった。
26歳の短い生涯だった。
ボースの悲しみはどれほどだっただろう。
彼は子供たちを育てながら中村屋の役員に就任し、相馬夫婦との深い絆の中で日本に恩返しをするために一生懸命働いたんだよ。
そんな日本での生活で、たった一つ彼を悲しませていることがあったんだ。
それが、当時日本に存在するカレーがまずいことだった。
「なんじゃ、こりゃ!こんなもんをインド人は食べてないぞお!!」
彼はそう思っていたんだね。
そしてなんと、インド式カリーを看板メニューにした「喫茶部」を作ろうじゃないか!と相馬夫婦に提案するんだ。
そうして始まったのが、今も新宿に存在する「中村屋」なんだよ。
そして、ビハリ・ボースが伝授したインド人の味、それこそが「純印度式カリーライス」なんだ。
だから、中村屋のインドカリーはインド革命家の魂の味だ。
つまりベンガル人なんだ。
インドがイギリスから独立した後、彼らはさらに民族自立のために自分たちの国を作った。
それがバングラディッシュだ。
ベンガル人の味。
独立のために戦ったバングラディッシュの魂の味なんだ。
さあ、今から中村屋のカレーを食べて、
ベンガル人の魂の味を満喫しよう。
つづく