BRIDGE ~世界に広げよう日本の心~

右でも左でもないど真ん中.石井希尚(Marre)のブログ

パラオの大和魂④「緑の島のお墓」

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◼︎戦史に残るゼロの記録
ペリリュー島の戦いで特筆すべきは、この戦闘で島が焦土と化したのに、現地住民の被害はゼロであったことだ。
島民は誰も死ななかった。
これがこの戦いのすごいところなのだ。
ここに日本精神がある。
なぜパラオ人の被害がゼロだったのか…。
それは、日本が決戦の前に現地住民を全員ペリリュー島の外へ非難させたからだ。
島の人の命を死なせてはならない!!!まずは租界させる・・これが日本軍の心だった。
平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。
「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」産経新聞ニュース)

当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島疎開したといい、こう記憶をたどった。
「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」(産経新聞ニュース)

昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。
しかし日本軍は彼ら全員を自ら骨折って本島やその他へ移住させた。
ただ、島外へ避難させただけではない。
ジャングル中を、無事に安全な場所へ逃れられるように、2日間もかけてエスコートしたというのだから驚きだ。
日本軍が、いかに島民を思っていたのかが伺える。
こういうことを、我々はもっと教えられなければならない。
島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。
米軍の上陸が避けられない情勢となったとき、現地住民の代表者が中川大
佐に直談判した。
「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」
すると中川大佐が激怒した。
「誇りたかき帝国軍人が、貴様らと戦えるか!!」
大佐の言葉に、住民代表は大きなショックを受けてその場を後にした。
まさか、このような扱いを受けるとは思わなかったからだ。
自分たちは、日本人と一緒に島を作り上げてきたのに…
築き上げてきた信頼関係は崩壊の危機に瀕した。
日本軍は空襲の目をかいくぐって、夜間、住民たちを強制的に移住させた。
彼らが島を去る夜、中川大佐初め、帝国軍人は見送りにも来ていなかった。
住民は失望しながら、舟に乗り込んだ。
舟が港から離れたあと、草むらから日本兵たちが現れ、ともに歌っていた歌を歌いながら、笑顔で手を振って別れを告げ始めた。
そのただ中に、激怒したはずの中川大佐もいた。
このとき、彼らは気づいたという。
中川大佐が、自分たちを救うために強制的に島を去らせたのだということを。
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◼︎美化された記憶?
なんと美しくい話か・・・。
出来すぎている。
僕は数年前、自分が主催しているBRIDGEとう会でで、この話をした。
しかし、そのときも、これは作り話に違いないと思っていた。
日本を美化するために誰かが創作したのだろうと。
しかし、天皇皇后両陛下のパラオ訪問関連のニュースを調べる中で、これが本当だったと知った。
当時9歳だった前述のニルゲサンが、取材に答えてこう言っている。
「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」

そして、元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)も言う。
「逸話は今でも語り継がれている」と。

なんと、この逸話は、他ならぬパラオで、語り継がれていたのだった。
逸話の出どころは、日本の戦争時代を美化しようと企てる似非保守の人々ではなく、他ならぬパラオ人たちだったのだ。
彼らこそ、この逸話を語り継いで来たのだった。
それは、この話しの一部始終が事実でなかったとしても、話の大筋として実際に起こったことであったからい違いない。
いや仮に、この話を誰かが作り出したものであったとしても、現実はこの逸話を喜んで語り継いできたパラオ人がいるということが、どれほど驚きに値することか。
それがパラオの人々の感謝と日本への愛情を如実に物語っているからだ。
それほど、日本は愛されていたし、今も愛されているのだ。

◼︎墓を守る!
戦後、島の人たちは、そこら中にちらばる日本兵の死体を見て涙した。
日本が負け、アメリカが支配者としてやってきた。
彼らは、日本人には見向きもせず、アメリカ人の遺体だけを片付けた。
ペリリューの人々は、涙の中で、日本人の遺体を埋葬した。
1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻った。
島民が日本兵の被害状況を具体的に知ったのは、昭和40年代に入ってからだったという。
日本から、慰問団がくるようになってから、初めて知ったのだ。
多くの遺骨が取り残されていのを知った島民たちは、遺骨収集に取り組み始めた。
遺骨収集に関わったアントニア・ウエンティさん(85)方がいる。
彼女は、戦後ペリリューに移り住み、島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたというのだ。
ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養し、軍医の妻には「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。
我々日本人が忘れ去った人たちを、他ならぬ島民たちは忘れることなく、今も感謝をもって遺骨収集に取り組んでくれている。
申し訳なく、感謝が尽きない。
彼女がつくったという「緑の島のお墓」という日本語の歌がある。
歌詞を噛み締めれが涙が溢れて止まらない。
ありがとう。ペリリュー島の皆様。
本当にありがとう。

「緑の島のお墓」
遠い故郷から はるばると お墓を参りに ありがとう
みどりのお墓の お守りは ペ島にまかせよ いつまでも
海の中にも 山の中 ジャングルの中にも 土の中
英霊よ よろこべ 安らかに 一緒に暮らそよ とこしえに
ペ島の願いは 唯1つ 日本とペリリューは 親善の友 
かよわい力 よく合わせ 知らせておくれよ 祖国まで 
伝えておくれよ 祖国まで 父母兄弟 妻や子に 
僕らはみどりの 島暮らし 
涙をおさえて さようなら
涙をおさえて さようなら
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パラオの大和魂③ 語り継がれなかったわけ

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◼︎ペリリュー島の戦い
大東亜戦争(第2次世界大戦)末期、南洋諸島に展開していた日本軍は補給が途絶え、備蓄も尽き、負けるのは時間の問題だった。
しかし日本軍は降伏する事も逃げる事もなく、最後の最後まで戦う。
パラオペリリューという島がある。
南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁の小島だ。
当時、日本軍はフィリピンを防衛する為に、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していた。 
エメラルドグリーンの海に囲まれた、南洋の小島は、1944年9月ついに戦場となった。
これが、世に言うペリリュー島の戦い』である。
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この度、天皇皇后両陛下が慰霊をしたのは、この戦いで命を落とした英霊たちだ。
天皇陛下のおかげで、多くの人の知るところとなった。
日本は、中川州男陸軍大佐ひきいる守備隊1万2千の兵士のみ。 
対するアメリカ軍の兵力は4万8千以上で、武器も弾薬も日本の6倍以上。
日本軍には、もともと勝ち目はない。
これは、いかに長く持ちこたえるかの戦いだった。
1944年(昭和19年)9月15日早朝、ウィリアム・リュパータス率いる米軍が上陸を開始した。
圧倒的有利の米軍は、この地を三日で攻略する計画だった。
しかし日本軍は、決死の抵抗により、73日間も持ちこたえたのだった。
 
◼︎サクラ サクラ
しかし、米軍は空からも絨毯爆弾の雨を降らせ、海上に展開する戦艦からも砲撃を加えた。
次々に死んでいく日本兵
遂に兵力は60名をきった。
73日間の攻防の末、そしてついに日本軍玉砕の時がくる。
「もはやこれまで」と意を決した中川州男大差は、11月22日、パラオ地区集団参謀長宛に、訣別の電報を打つ・・・

『地区隊は本二十四日以降、統一ある戦闘を打切り、残る健在者約五十名を以て 遊撃戦闘に移行、あくまで、持久に徹し、米奴撃滅に邁進せしむ。重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。将兵一同聖寿の万歳を三唱、皇運の弥栄(イヤサカ)を祈念し奉る。
集団の益々の発展を祈る』
 
そして、中川州男大佐は、武士の作法に則って切腹した。
根本甲子郎大尉以下、55名になってしまった残存部隊は、最後の決死隊として突撃。
24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦し、全員玉砕した。
「サクラ・サクラ」
日本の情緒を伝えるこの二語が、軍旗も機密書類も、すべて焼却したことを意味する最後の暗号電文だった。
11月24日16時、参謀本部に電文は届いた。
さくら・さくら・・・
散りゆく桜の花のように、中川隊が最後まで戦い抜いて死んだことを告げたのだった。
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◼︎忘れ去られた真実
この戦いのことを、多くの日本人が知らない。
しかし、アメリカでも、あまり語り継がれなかった。
だから硫黄島の戦いのように、日本人の耳にも届かなかったのだ。
それは、米軍の最精鋭部隊といわれた「第一海兵師団」の死傷率が約50%と極めて高く、米国にとっても「不名誉な戦い」とされたからだ。
彼らにとって、語り継ぐのは恥をさらすことを意味した。
それほど、中川隊の戦いぶりは壮絶だったということだ。
日本を守るために、一日でも長く持ちこたえようと、必至に戦い、壮絶な死を遂げた彼らを我々は忘れてしまっていた。
でも、天皇陛下はおぼえていた
自分が始めた戦争ではない。
けれども、陛下は彼らの慰霊のために、日本国民を代表して訪れて下さった。
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パラオの大和魂 ② パラオを植民地支配から救った日本

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◼︎1920年パラオでは国際連盟委任統治による日本統治時代が始まった。
それ以前のパラオはどうだったのかと言えば、①で言ったとおり、1899年以来ドイツの「植民地」だった。
その前は、1885年からスペインの植民地だった。
スペインはイギリスとの植民地争奪戦に勝利し、勝手にパラオを領土にしてしまったのだ。
しかしその後、アメリカとの戦争で疲弊したスペインは、財政的な事情から、パラオをドイツに売ってしまう。
不幸なことに、パラオは、ヨーロッパの大国間で売り買いされたという不遇の歴史を持つ。
国そのものが、売り買いされるなんていうのは、ちょっと我々の感覚では理解できないが、これが、15世紀の大航海時代以降、ヨーロッパ人たちがしてきたことだ。
他国を侵略し、勝手に自国の領有として、そこにある権益を自分たちのものにしてしまうという植民地主義が、海という天然の防波堤に守られてきた島々にも押し寄せてきた。
これによって、どれほど多くの国々が悲惨な目に遭ってきたことか。
パラオには、遺跡などの手がかりによれば2000年前あたりから人が住んでいたという。
南の島の平和と独自の文化は、ヨーロッパ人がくるまでは守られていたのだ。
しかし、15世紀の大航海時代の到来は、南の島々にとっては破壊の始まりとなった。
15世紀以降ヨーロッパ人たちがやってくると、鉄砲が持ち込まれ、力による支配が始まる。
鉄砲だけでなく、天然痘も持ち込まれた。
4万人以上いたパラオの人口は、一挙に5000人まで減少してしまう。
人口のおよそ90%が死に絶えたのだ。恐ろしいことである。
ドイツ時代も、スペイン時代と同様、愚民政策がとられた。
教育は殆どを行わなかったということだ。インテリはいらない。賢くない人の方が支配しやすいからだ。
パラオ発展のために絶対に必要な、水道や道路などのインフラ整備も行なわれず、病院や学校もパラオ人のために整備されることはなかった。
ヨーロッパ諸国が支配した植民地はみなどこも同じようなものだったことはよく知られている。
ヨーロッパの発展は、植民地における、資源の一方的な収奪によるものだ。
植民地の資源は吸い上げられ、その国の人々が働いても働いても自国は富まず、国力が衰退していった。
それがヨーロッパの繁栄を支えたということになる。
その結果、文化の破壊がおこり、壊滅的な影響をうけた国々が多い。
今も、かつてヨーロッパの植民地だった多くの国々は内戦や貧困で苦しみ「途上国」と呼ばれる憂き目にあっている。
しかし、有色人種国家で、世界で唯一、当時の欧米列強の植民地とならな
かった国がある。
それが日本だ。

◼︎世界支配の構図を変えた日本
日本は、開国以降、彗星のごとく列強支配の世界に現れた。
絶対に負けないと信じられていたロシアのバルチック艦隊を殲滅させ、超大国ロシアを破った。
日本が日露戦争に勝利したことは、白人が支配していた歴史の終わりを意味した。
大航海時代以降の、白人至上主義的世界の終焉は、日本によってもたらされたものだ。
これは世界史の重大な転換点で、日本がその大きな役割を果たしたことは日本人は知らなければいけない。
だから、第一次世界大戦が終わったとき、日本は欧米列強と肩を並べる国として存在していた。
それまで、世界中に植民地をつくり、派遣争いを展開し、世界地図を書き換えてきた西洋列強のただ中にあって、ただ一国、東洋人の国として、日本は彼らが無視できない国へと上り詰めていた。
日本は有色人であれながら、白人至上主義者たちと肩を並べる世界秩序構築の一翼を担う国となっていたのだ。
だから国際連盟は、日本にパラオ委任統治を任せた。
考えて見れば、白人国家であるドイツの植民地を、日本が委任統治するようになったという事実は、それまでの歴史からは考えられないことだ。
そして、この日本時代がパラオを救った。

◼︎欧米のようにはやらなかった日本
日本は、①で述べたように、委任統治と植民地とを履き違えることもなく、真心を尽くしてパラオ発展のために尽くしたからだ。
西洋の植民地主義によって深く傷ついていた南洋の島国を、日本は根底から立て直したのだ。
日本は、パラオから搾取しなかった。
パラオ人を奴隷のように扱わなかった。
日本は、国家予算を捻出し、国家の威信をかけて、パラオを復興させたのであった。
日本によって殖産産業が興された。
缶詰工場やビール工場も作られ、日本から多くの熟練資した技術者が現地の人々を指導した。
むち打って働かせるのではなく、日本人は自ら現場に出て、仕事を見せ、共に働いた。
パラオの人々は、このようなことは見たことがなかった。

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日本人の真面目さとパラオ発展のために尽くす姿に、純朴なパラオの人々は、傷ついた心を開き、信頼関係が築かれるようになっていった。
日本は、それまで一度もなされなかったことをした。
パラオ人全てに伝染病の予防接種を受けさせた。
これは「日本国民」として彼らを扱ったという意味だ。
日本式の学校も整備され、現地の子供たちは、日本人と一緒に学んだ。
パラオは、日本人の心をわけた故郷の一部となっていった。
日本統治時代の31年間はパラオ人にとって、夢のような裕福で平和な時代
だったのだ。当時を偲び、彼らは言う。

「唱歌の時間がほんとに楽しかった‥ハトトポッポ 昔々浦島は もしもし亀よ 桃太郎さん 白地に赤く…とか教えてもらいました…。
「おとぎ話もたくさん習いました。例えば「サルカニ合戦」「桃太郎」「舌きり雀」「亀と兎」なんかでしたね」
「日本の先生は良い心をもった先生だった。日本人に責任感を教えてもらったことがいちばん良かった。」

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この時代があったから、パラオは後に独立することができた。
15世紀中期以降、何百年もの間、白人至上主義の犠牲になり、主権国家としての体を成すこともなく、民族の誇りさえ持ち得ない環境で生きてきた純朴な人々たちの島を、立派な国に立ち直らせた功績は、少しばかり日本人が誇りに感じても罰は当たらないだろう。
他ならぬパラオ人は、今もこれを感謝している。
だから、パラオは世界で一番の親日国家なのだ。

パラオの大和魂① 植民地だったのにどうして親日なの?

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天皇皇后両陛下が、戦後70年の節目にパラオを慰霊のために訪れたことで、多くの人がパラオや、日本軍が玉砕したペリリュー島の戦いに興味を持った。
とてもいいことだと思った。

でも、今のパラオがものすごい親日で、しかも当時は日本の委任統治領だったと知ると
「日本の植民地だったのにどうして親日なの?」なんて不思議がる人がいまだに多い。
そういう訳で簡単におさらいしてみよう。

◼︎パラオは植民地じゃなかったの?
まず、パラオが日本の植民地であったと認識している人が多いがこれは間違いだ。
日本はパラオを植民地にしていない。
正確にはパラオは日本の委任統治領」だった。
「え?委任統治領って植民地でしょ?」
なんて言う声が聞こえてきそうが、大違いだ。
植民地というのは、ある国が他の国に武力で侵略し、その国を勝手に自分たちのものにしてしまうことだ。
しかし委任統治領というのはこれとは違う。
これは、第一次大戦後、敗戦国の領土や植民地を統治するために、国際連盟が別の国に統治を委ねた統治形態のことを言う。
つまり日本は、パラオを植民地にしたのではなく、国際連盟によって「パラオを統治してください」とその統治権を委任されたということだ。
なぜそうなったかと言えば、日本は第一次世界大戦のとき連合国側にいたからだ。
ドイツ帝国は、オスマン帝国ハンガリー帝国と組んで連合国と戦った。
日本は、敵国であるドイツの植民地だったパラオを攻め、ドイツを蹴散らしてパラオをドイツから解放する。
そして戦争は終わる。
連合国側の勝利であった。
日本は戦勝国の一つとなったわけだ。
そして終戦後、講和の具体的な内容を取り決める国際会議が開かれる。
これがパリ講和会議だ。
そこで、賠償金や、国境、領土など、多くのことが話し合われ、具体的に決めらた。
これをベルサイユ条約」という。
ドイツは、この条約により、植民地をすべて放棄しなければならなくなった。
そしてドイツが放棄した植民地は、『国際連盟が指定する国が統治する形』へと移行することが決められた。
これが「委任統治」である。
そして、国際連盟パラオを日本の委任統治領にすることを決める。
かくして講和会議の翌年、1920年、日本は国際連盟から委任をうけて、パラオを統治することになったというわけだ。
まずは、この流れを正しく理解しておこう。

◼︎権力の空白が混乱を生み出す
戦後、権力の移行がスムーズに行われないと、その国は大混乱する。
イラク戦争で、アメリカがフセイン政権を倒してしまったから、イラクは内線状態に陥ってしまった。
アメリカ軍が去った後のイラクの歴史は混乱の一言に尽きる。
その結果、今はあのテロ集団イスラム国が大暴れしている。
シリアも状況は同じだ。
権力の空白があると、必ずそこを狙ってどこかの国が入ってくる。
権力が存在していても、統治機能が盤石でなければ、内戦が勃発する。
それは、歴史を見なくても、昨今のニュースを見れば明らかなことだ。
無政府状態という言葉をよく耳にするが、一つの国の権力が倒れたら、その次を誰がどうするのかは限りなく重要な問題だ。
だから、ドイツの植民地から脱したパラオが、無政府状態にも内戦状態に陥らず、他国からの不当な侵略の憂き目にも遭わず発展していくためには、それなりの力を持った国の統治力による秩序が必要だ。
国際連盟はそのために日本を選んだ。
これは、侵略が目的ではなく、統治される国の安定と発展、将来の独立をサポートするめのもので、統治を任された国は、そのために尽力しなければならない。
これが委任統治だ。

◼︎責任を果たした日本
パラオは、戦争という不条理の歴史の流れに翻弄された。
しかしその結果、1920年日本の委任統治領になった。
そしてこれが、パラオにとっては幸運だったのだ。
なぜなら、日本は委任統治を植民地とはき違えることなく、そもそもの目的どおり、責任をもってパラオの発展のために尽くしたからだ。
その統治の仕方が素晴らしかったので、パラオの人は今も「日本時代は素晴らしかった」と思い出す。
日本時代がなければ、今のパラオ共和国はない。
だから、パラオの人々は、今も日本に感謝しているというわけだ。
これは、日本人が誇るべき本当の歴史で、実際のところ、
パラオのために日本がなしたことは本当に素晴らしかったのだ。

天皇陛下が、ホテルでなくなぜ海上保安庁の巡視船「あきつしま」に??!!

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◼︎ホテルに泊まらないことを希望した天皇皇后両陛下
実はこれはは陛下自身の強い希望だった!!
4月9日、日本から3千キロ離れたミクロネシアペリリュー島で、天皇皇后両陛下が戦没者を慰霊した。
それにしても、今回宿泊場所として、海上保安庁の巡視船「あきつしま」を利用されたことが驚きに値する。
10年前、戦後60年の節目に、天皇皇后両陛下は、戦後初めて戦没者慰霊の旅に出られ、サイパンを訪れた。
その際も、陛下ご自身は、ペリリューを含むミクロネシアまでいくことを強く希望されていたという。
しかし10年前は、パラオでの受け入れ態勢が整わないという理由で、断念せざるをえなかった。
でも、天皇陛下はその後も太平洋諸島で亡くなった方々への思いを抱き続け、この度戦後70年の節目の年にパラオでの戦没者の慰霊について再び強く希望され、それが実現した。
ところが、陛下のパラオ共和国訪問について、実は首相官邸が見直すことを希望したという。
その理由は
パラオの警察官はわずか200人で、警備にあたるのは50人足らず。警備態勢の整ったホテルもないため、訪問はご遠慮いただきたい』
ということらしい。

しかし、それをはねのけたのは天皇陛下ご自身の意向」だったのだ。
パラオ訪問が警備の都合で実現しなかった経緯を残念に思っておられる両陛下が、“宿泊は船内でも構わない”との見解を示されたと聞きます」(ベテラン皇室記者)と報道されている。


◼︎異例事態
そういうわけで、両陛下は「客船ではない」巡視船「あきつしま」に宿泊することになった。
両陛下が国内外への訪問を通じて巡視船に泊まるのは初めて。
異例中の異例ということだ。
巡視船「あきつしま」には、戦没者慰霊碑のあるペリリュー島に渡る際、移動手段となる大型ヘリコプターを2機搭載できるので、ホテルよりも移動の手間がないというスケジュール上の利点があったということが、それにしても、この船は「客船じゃない!」
陛下が宿泊されるためにデザインされていない。
実際に、陛下の宿泊には懸念材料が多かった。
関係者によると、具体的な懸念は、
1)階段が約50度で急勾配だということ。
2)両陛下がともに泊まれるツインの部屋がないこと。
3)部屋が隣接しておらず側近がお世話をしづらいこと。
4)海水の浸入を防ぐため足元に一定の高さのある仕切りが多く、転倒の恐れがあること。

50度の勾配というのは、相当な急勾配だ。
ご高齢の両陛下には上り下りするだけで負担となる。こんなに不便なのに、それでもここに宿泊するのでもいいからパラオに行くことを実行された陛下。
日本人としてただひたすら感謝しかない。
せっかく南国にいくのだから「トロピカル気分でゆっくりしたいなあ」などとは思われなかったということだ。
はじめから、目的がはっきりしていて、体を休めるとか、宿泊場所が快適であることなどの希望を出されなかったといことだ。
頭が下がる・・・。

◼︎海上保安庁もがんばった
もちろん海保や宮内庁などはさまざまな工夫をしたのはいう言うまでもない。
具体的には、
1)両陛下が利用する可能性のあるところにはできるだけスロープや手すりを設置。
2)個室である船長室に大きめのベッドを入れてお二人で泊まれるようにした。
3)宿泊する側近を侍従、女官、医師ら最小限に絞った。 
4)トイレも洗浄便座に変更した。 

3000キロの飛行機の旅のあと晩餐会などをこなして、その後宿泊するのが船。波が高ければ船酔い必死。
手すりをつけても急勾配は変わりないし、基本構造がバリアフリーじゃないし、しかも陛下は病み上がり。
それなのに最小限のスタッフで行かれたとは。

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◼︎ありがたい・・・ひたすらに
いろいろな悪条件を乗り越えてまでペリリューでの慰霊をされたことは、素晴らしいとしか言いようがない。
日本人としてこのような方が陛下であるという事実は誇りである。
今回実現しなかったら、ペリユー島の戦いで死闘を繰り広げ、生き残った数人の元兵士たちは誰もいなくなってしまっていただろう。
みな90歳を超えているから。
そして日本兵だけでなくアメリカ兵の慰霊も忘れなかったことがすばらしい。
日本の平和国家としての立場を天皇陛下であるからこそ世界に発信できる。

それにしても、両陛下ウオッシュレットなんだなあ・・