読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BRIDGE ~世界に広げよう日本の心~

右でも左でもないど真ん中.石井希尚(Marre)のブログ

パラオの大和魂④「緑の島のお墓」

11174278_10206051843485930_6148141173294431750_o
◼︎戦史に残るゼロの記録
ペリリュー島の戦いで特筆すべきは、この戦闘で島が焦土と化したのに、現地住民の被害はゼロであったことだ。
島民は誰も死ななかった。
これがこの戦いのすごいところなのだ。
ここに日本精神がある。
なぜパラオ人の被害がゼロだったのか…。
それは、日本が決戦の前に現地住民を全員ペリリュー島の外へ非難させたからだ。
島の人の命を死なせてはならない!!!まずは租界させる・・これが日本軍の心だった。
平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。
「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」産経新聞ニュース)

当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島疎開したといい、こう記憶をたどった。
「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」(産経新聞ニュース)

昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。
しかし日本軍は彼ら全員を自ら骨折って本島やその他へ移住させた。
ただ、島外へ避難させただけではない。
ジャングル中を、無事に安全な場所へ逃れられるように、2日間もかけてエスコートしたというのだから驚きだ。
日本軍が、いかに島民を思っていたのかが伺える。
こういうことを、我々はもっと教えられなければならない。
島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。
米軍の上陸が避けられない情勢となったとき、現地住民の代表者が中川大
佐に直談判した。
「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」
すると中川大佐が激怒した。
「誇りたかき帝国軍人が、貴様らと戦えるか!!」
大佐の言葉に、住民代表は大きなショックを受けてその場を後にした。
まさか、このような扱いを受けるとは思わなかったからだ。
自分たちは、日本人と一緒に島を作り上げてきたのに…
築き上げてきた信頼関係は崩壊の危機に瀕した。
日本軍は空襲の目をかいくぐって、夜間、住民たちを強制的に移住させた。
彼らが島を去る夜、中川大佐初め、帝国軍人は見送りにも来ていなかった。
住民は失望しながら、舟に乗り込んだ。
舟が港から離れたあと、草むらから日本兵たちが現れ、ともに歌っていた歌を歌いながら、笑顔で手を振って別れを告げ始めた。
そのただ中に、激怒したはずの中川大佐もいた。
このとき、彼らは気づいたという。
中川大佐が、自分たちを救うために強制的に島を去らせたのだということを。
1926660_10206046725317979_7571168992441325525_n

◼︎美化された記憶?
なんと美しくい話か・・・。
出来すぎている。
僕は数年前、自分が主催しているBRIDGEとう会でで、この話をした。
しかし、そのときも、これは作り話に違いないと思っていた。
日本を美化するために誰かが創作したのだろうと。
しかし、天皇皇后両陛下のパラオ訪問関連のニュースを調べる中で、これが本当だったと知った。
当時9歳だった前述のニルゲサンが、取材に答えてこう言っている。
「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」

そして、元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)も言う。
「逸話は今でも語り継がれている」と。

なんと、この逸話は、他ならぬパラオで、語り継がれていたのだった。
逸話の出どころは、日本の戦争時代を美化しようと企てる似非保守の人々ではなく、他ならぬパラオ人たちだったのだ。
彼らこそ、この逸話を語り継いで来たのだった。
それは、この話しの一部始終が事実でなかったとしても、話の大筋として実際に起こったことであったからい違いない。
いや仮に、この話を誰かが作り出したものであったとしても、現実はこの逸話を喜んで語り継いできたパラオ人がいるということが、どれほど驚きに値することか。
それがパラオの人々の感謝と日本への愛情を如実に物語っているからだ。
それほど、日本は愛されていたし、今も愛されているのだ。

◼︎墓を守る!
戦後、島の人たちは、そこら中にちらばる日本兵の死体を見て涙した。
日本が負け、アメリカが支配者としてやってきた。
彼らは、日本人には見向きもせず、アメリカ人の遺体だけを片付けた。
ペリリューの人々は、涙の中で、日本人の遺体を埋葬した。
1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻った。
島民が日本兵の被害状況を具体的に知ったのは、昭和40年代に入ってからだったという。
日本から、慰問団がくるようになってから、初めて知ったのだ。
多くの遺骨が取り残されていのを知った島民たちは、遺骨収集に取り組み始めた。
遺骨収集に関わったアントニア・ウエンティさん(85)方がいる。
彼女は、戦後ペリリューに移り住み、島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたというのだ。
ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養し、軍医の妻には「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。
我々日本人が忘れ去った人たちを、他ならぬ島民たちは忘れることなく、今も感謝をもって遺骨収集に取り組んでくれている。
申し訳なく、感謝が尽きない。
彼女がつくったという「緑の島のお墓」という日本語の歌がある。
歌詞を噛み締めれが涙が溢れて止まらない。
ありがとう。ペリリュー島の皆様。
本当にありがとう。

「緑の島のお墓」
遠い故郷から はるばると お墓を参りに ありがとう
みどりのお墓の お守りは ペ島にまかせよ いつまでも
海の中にも 山の中 ジャングルの中にも 土の中
英霊よ よろこべ 安らかに 一緒に暮らそよ とこしえに
ペ島の願いは 唯1つ 日本とペリリューは 親善の友 
かよわい力 よく合わせ 知らせておくれよ 祖国まで 
伝えておくれよ 祖国まで 父母兄弟 妻や子に 
僕らはみどりの 島暮らし 
涙をおさえて さようなら
涙をおさえて さようなら
11170365_10206046724277953_2834038837861783049_n