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BRIDGE ~世界に広げよう日本の心~

右でも左でもないど真ん中.石井希尚(Marre)のブログ

到来!日本VSカトリック教の時代①

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◼︎沈黙が封切られ遠藤周作の原作であるが、再び売れている。
日本人がハリウッド映画に出た〜ということで日本人は喜んでいるが、封切られた最初の週で第4位だった。「君の名は」には遥か及ばない。
アメリカでは制作費がカバーできるかどうかわからないほどの不当たりだ。
そうは言っても、多くの外国人がこの映画を見て、日本で起こったキリスト教弾圧の歴史を知ることとなった。
この映画をみた外国人の殆どには日本人の残虐さが印象付けられることだろう。
当時の日本がなぜキリスト教を禁止したのかを理解しない限り、ただ日本人が野蛮人であるかのようにうつる。
だから僕はWNDのレヴューで歴史的背景について書いた。
👉http://www.wnd.com/2017/01/what-promoters-of-silence-wont-tell-you/
多くのアメリカ人が、歴史的背景を教えてくれてありがとうとメッセージをくれた。
今回はさらに少し歴史を遡って、室町時代の後期、カトリックの宣教師が極東の島国までやってくることとなった歴史を確認しよう。

◼︎それはザビエルが鹿児島に漂着したことから始まった

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そもそも、何故ザビエルがわざわざ、極東までやってきたのか。
これが分からないと、すべてを見誤る。
さあ、歴史認識のお時間です!
一体なぜ、ザビエルは日本に来たのか…。
それは当時の時代がそうさせたのだと言える。
もちろん彼には「布教」という目的があった。
これには疑いの余地はない。
しかしなぜ日本まで来たのかという理由が問題だ。 
その理由とは「この時代」である。  
「この時代」を理解しなければ、カトリック布教の目的も理解できない。
世界はスペインとポルトガルによる大航海時代に突入していた。

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それは、すなわちスペインとポルトガル植民地主義による覇権争いの時代である。
スペインとポルトガルは、有色人種世界を次々と植民地化し、人々を奴隷として、世界戦略上の利益拡大のために競い合っていたのだ。
世界布教はその戦略的スキームとして展開されたのである。

◼︎アフリカ進出
少し時計の針を戻してみよう。 
コロンブス(スペイン)がアメリカ大陸に到達する数十年前の1411年、ポルトガルは、アフリカ北岸の商業都市セウタに攻め込み自国の領とした。
それは、この地域からイスラム勢力を駆逐し、キリスト教を振興させることが目的だった。
それだけではない。
当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る海域はイスラムの大国オスマントルコ帝国が支配していて、インドや東南アジアとの交易を独占していたから、ポルトガルはアフリカ大陸を迂回してアジアに西廻りの交易ルートを開拓することによってオスマントルコに独占されていた莫大な利益を奪おうとしたのだ。
ローマ教皇ニコラウス5世は、アフリカの大西洋沿岸の土地や島を探検し、そこで発見したすべてを所有する独占的な権利をポルトガルに与えていた。

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だから、ポルトガルはやりたい放題にアフリカ西岸を物色し、ついには1488年、探検家バーソロミュ・ディアスがアフリカ西岸の最南端に到達した。
彼の旅には、東への航路発見以外に、もう一つの目的があった。
それはアフリカ奥地にあると言われていたキリスト教国を探しにいくことだった。
この国は、おそらくエチオピアのことで、当時のヨーロッパにプレスター・ジョンという英雄がいるという伝説が伝わっていたのだ。
カトリック教徒たちは、このプレスター・ジョンを探していた。
これはこれで面白い歴史だ。
ちなみに、ニコラウス5世は1452年、ポルトガル王アフォンソ5世に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。これが白人至上主義である。
ディアスは1487年8月にリスボンを出航した。
だが、途中で嵐にあって二週間以上も漂流した。
そしてついに1488年1月、アフリカ大陸西岸の最南端の岬を発見した。
彼はその岬を「嵐の岬」と名付けた。この海域は波が激しいらしい。
この場所から、東に向かい海が開かれている美しい景観を見たディアスの興奮はどれほどだっただろう。「ついにやった!東へいけるぞ!」と思っただろう。
この報告を受けたポルトガル王ジョアン2世は、この岬を喜望峰と改めた。
Cabo da Boa Esperança 良い希望の岬、という意味だ。
ついにオスマン帝国を回避して、東の利権を奪い取るルートを発見したわけだから、彼らにとって「良い希望、グッドホープ」だったというわけだ。

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◼︎ペン一本で世界を二分したトルデシリャス条約
一方スペインは、大西洋を横断して西回りにアジアに至ろうとコロンブスの船団を派遣した。
そして、ポルトガル喜望峰到達から遅れること5年、アメリカ大陸に到達した。
彼らは「インドにたどり着いたぞ!」と大いに喜んだが、そこは「新大陸」だったのだ。
だから、アメリカ先住民はインディアンと呼ばれるようになった。
コロンブスがこの航海から帰還すると、スペイン王とポルトガル王は新たに「発見」された地への入植や権利をめぐって対立するようになった。
東回りのポルトガルと、西回りのスペインが、次々と「発見」される「新大陸」を我が物とするために競合していたのである。
この利権争いは激化し、ついにはローマ教皇教皇アレクサンデル6世がが解決に乗り出した。

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教皇は世界地図をしげしげと眺めてからペンを取り、地図上に赤道と直角に、つまり南北を結ぶ一本の線をひいた。そしてこう言ったのだ。
「ここからこっちはポルトガル。こっちはスペイン」
なんと、ローマ教皇の権威において、地球を二分割してポルトガルとスペイン両国に支配を許す勅許を与えたのである。
これが、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約だ。
この条約で、西アフリカのセネガル沖にあるカーボベルデ諸島の西1770kmの海上(西経46度37分)の場所に「子午線」をひき、その東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。
あっと驚くことだし、恐ろしいほどの傲慢だ。
全地球を自分たちのものとして支配するというのだから。
ところが、地球は丸いから、その裏側はどっちに属するんだ!という帰属問題が起こった。
そこで1529年に、新たに裏側にもう一本の線がひかれた。
これをサラゴサ条約という。

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ところが、領域の解釈上の問題で、両方の勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。
特に両国は、東南アジアのモルッカ諸島の帰属をめぐって猛烈に争った。
理由は香辛料だ。
ここは香辛料の産地で、ヨーロッパ人の間ではスパイス諸島と呼ばれていた。
そして、日本はこの微妙は領域に位置していたのである。

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◼︎植民地主義による覇権争いが運んだ宣教師たち
ポルトガルフランシスコ・ザビエルは、日本をポルトガルの支配下に置こうとした。
だがスペインもフィリピンのルソン島を実力支配し、そこから中国、日本に勢力を拡大しようと画策していた。
ポルトガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に日本を植民地化しようと、時の為政者たちに近づいていったのだった。
この時代に世界に遣わされた宣教師たちが、個人的にどんなに素晴らしい信仰者であっても、
侵略による世界支配は彼の良心を傷つけることはない。
植民地主義は彼らの常識だったのだ。
これがわざわざザビエルが日本までやってきた「時代」である。

◼︎マルチン・ルターの波紋
しかし、それだけではない。それに加えてヨーロッパ社会にとてつもなく大きな波がおこった。それえはマルチン・ルターの宗教改革である。
1517年10月31日、ドイツ人神学者マルティン・ルター「95ヶ条の論題」という文書をヴィッテンベルクの教会の門に貼りだした。
これは免罪符の販売など、中近世のローマカトリックの重大な誤りを正す文書であった。
政治権力と結びついた教会の歪な形を非難し、聖書のみに権威を置いた。
カトリック世界に衝撃が走った。これがプロテスタント(抗議)運動の起こりである。
ルターが放った一撃は、わずか数年でイングランドにも深く浸透した。
イングランドは、後にカトリックから離脱し、英国国教会国家(プロテスタントに近い)となっていく。
後にオランダもスペインから独立していくが、オランダはプロテスタント国家となった。
カトリック教会は、プロテスタントにより多くの信者を失っていったのである。

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◼︎失われた領域回復のために登場した結社
このような時代に結成されたのがイエズス会である。
イエズス会の目的を著名な牧師/キリスト教著作ヘンリーH.ハーレーは端的にこう書いている。
 
プロテスタント、モハメット教により失われた領域を回復すること、
ローマカトリック強化による異教国征服、とを目的に設立された教団

                             
フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の設立メンバーの一人であり最も優秀な宣教師の一人であった。
イエズス会は、堅い意志と信念により目的を実現するための最強のカトリック結社であったといっても過言ではない。
彼らはカトリックの復興と回復のために文字通り命をかけた勇敢な男たちであった。
カトリックの利益と未来のために、未開の地へと旅立っていったのである。
ザビエルの関心はアジア、とりわけ中国に向いていた。
しかし、中国に向かう途上、マラッカで偶然にも歴史資料上日本人初のカトリック教徒「やじろう(あんじろー)」に出会う。
やじろうは若い頃に人を殺し、薩摩に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れたのであったが、その罪を告白するためにザビエルを訪ねたという。
ザビエルが初めて遭遇した日本人である。
彼は、やじろうから聞く日本という国に興味を持った。
そして、中国に向かう前にぜひみてみたいと思ったのである。
かくして、1549年8月15日、ザビエルはついに日本に上陸したのだった。
もうお判りだろう。
ザビエルがわざわざ極東の島国日本にやってきた理由が。
それは植民地主義によるポルトガルとスペインの覇権争いの結果であり、プロテスタント勢力に利益を奪われたカトリック教の起死回生をかけた復活プロジェクトの結果だったのである。

◼︎衝撃を味わったザビエル
日本はザビエルに衝撃をあたえた。
日本は彼が、知っていたアジアのどの国とも違っていたのだ。
ローマに送った書簡に彼はこう書いている。

日本についてこの地で私たちが経験によって知りえたことを、あなたたちにお知らせします。
第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。

彼らは、キリスト教徒以外は野蛮だと信じていた。
有色人種は搾取する対象であって、彼らは植民、つまり奴隷でしかないのだから。
しかしザビエルの目にうつる日本人は、異教徒の中で最高だった。
日本は、イエズス会の最優秀宣教師フランシスコ・ザビエルの価値観を一撃で変えたのである。
ザビエルは日本人が好きになった。
しかし、どんなに彼が素晴らしい信仰者で親日であっても、彼はイエズス会でありポルトガル人なのだ。
カトリックと国家のために尽くしていた。
覇権主義と無関係に神の愛を語る布教活動は、彼らの意識の中には全く存在していなかったのである。
これこそが、その後「沈黙」の時代に続く不幸な「日本VSカトリック教」という不幸な対立構造を生み出した原因である。

それはどのように起こったのか…
この続きは次回。