天皇陛下お気持ち表明 200年ぶりの上皇誕生か?
憲法上問題となり得るご自身の「退位」について、何を語るのかと固唾を飲んで聞き入った。
71年前、敗戦を告げる玉音放送を、当時の人々がどのような思いで聞いたのかと思いをはせる瞬間だった。
時代が大きく動きていることを誰もが実感しているだろう。
僕たちはまぎれもなく「歴史」の目撃証人なのだ。
実は、この光格天皇の働きがなかったら、今の皇室は存在していなかったかもしれない。
光格天皇が日本史の中で果たした役割はとてつもなく大きい。
◼︎天明の大飢饉の湧き上がった御所御千度参り
わずか数年の間に92万人以上も死者を出した。
疫病も蔓延し長く暗い日々が続いた。
飢饉が最も酷かった東北では、死んだ人間の肉を喰らって飢えを凌ぎ、方々に、肉がきれいになくなった白骨死体が山のように積み上げられていたというのだから、その悲惨さは想像を絶する。
そんな絶望的な時代の真っ只中、天明7(1787)年6月7日のことだった。
京都の御所の周りを歩く人々が現れた。
どこからともなく、集まってきた人々の数は、あれよあれよという間に膨れ上がり、みな祈りながら御所の周りを廻り始めたのだ。
百度参りという民間信仰がある。
人々は祈りのために寺社に詣でて、境内の一定の距離を、祈りながら百度往復する。
その信仰にならって、人々が救いを求めて祈りの行進を始めたのだ。
しかし、その場所が神社でもお寺でもなく、天皇がおられる「御所」だったのである。
最初は数人だった。
ところが、3日後には、その数は1万人にまで膨れ上がり、10日後には7万人もの人々が御所の周囲を祈りながら巡り続けた。
そして、人々は紫宸殿(ししんでん/御所の正殿)に向かって手を合わせ必死に祈った。
これが『御所御千度参り』である。
それは、当時の人々が政府を見限ったからである。
米価が高騰し、餓死者が続出しているのに、幕府は効果的な救済策を講じることができないでいた。
ところが、役所はいっこうに動かなかったのだ。
5月には、怒った大坂の町民が数十軒の米商人の家を襲う事件が起きていた。
将軍のお膝元、江戸でも5月19日からの5日間、数百人の百姓が竹槍で武装して騒ぎを起こしていた。
飢饉が最もひどかったのは東北だったが、その影響は関西、そして京都にまで広がっていたのだ。
日本中で餓死者が続出しているのに、具体的で大規模な救済策を講じることのない幕府に、人々は失望し、国難の時代に対応力を欠いた幕府には、もはや救済する力がないと悟った。
幕府の威光は完全に失墜していた。
そんな中、人々が頼みにしたのが「皇室であり天皇陛下」だったのだ。
人々は救いを求めて、天皇にすがったのだった。
それが御所千度参りだった。
それが御所千度参りだった。
具体的な方策として、賑給(しんごう/古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った儀式)を行うことや、関東から「救い米」を差し出して、民を救済できないかという申し入れだった。
これにより、朝廷が直接江戸幕府の政治に口を出すなどという事は御法度だったのだ。
江戸時代が始まってから、天皇が政治に関与したことは一度もない。
現代と同じである。
結果として幕府は京都御所に詰めかけている人々への「救い米」放出を決定した。
天皇の思いが、幕府を動かし、具体的な救済策が講じられたのだ。
上皇は押し寄せる人々に3万個のリンゴを配給している。
幕府が効果的な救済策を何ら講じることができなかったとき、皇室は人々に寄り添っていた。
その心は今上天皇にまで、確かに受け継がれている。