BRIDGE ~世界に広げよう日本の心~

右でも左でもないど真ん中.石井希尚(Marre)のブログ

到来! 日本VSカトリック教の戦い!② 始まった破壊!!


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◼︎オルガンティーノの価値観を変えた日本
日本でのカトリック教普及の最大の功労者は誰あろう織田信長である!
新し物好きの信長はキリスト教布教を認め自らも彼らと議論することを好み、信長が彼らを保護したことが、カトリック普及の歴史にとって決定的に重要なプラス要素となったことは周知のことだ。
信長は安土城に宣教師を招いて、自ら接待し、宗教談義を楽しんだ。
フロイスという宣教師とは何十回も面会している。
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彼と親しくなった一人にイエズス会の宣教師ルガンティーノがいる。
彼はイタリア人だが、はやりイエズス会に属していた。
オルガンティーノも日本の風土と日本人に魅せられ大の親日家となった。
彼はこう記している。
 
われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。
(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる。
またこうも言っている。
日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない。
 
当時の彼らにとって有色人種は支配すべき種族であって、奴隷化することは「常識」だったし、それは社会構造であったから、そこになんら疑問を感じていなかった。
実際「神に仕える」はずの宣教師たちは黒人の奴隷たちを伴って来日している。
信長はそんな黒人奴隷のひとりを買い取っている。
信長はその黒人をサムライにしてやった。
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ヨーロッパ人にとって、異教徒は教化の対象であってあくまでも未開人だった。
ところが、オルガンティーノは、日本人とその文化に触れることで、自分たちの有様が野蛮で「果たして自分たちは文明人と言えるのか」と自問せざるをえなくなったというのだから、日本が与えた影響は計り知れないほど大きい。
その衝撃は①でも書いたようにフランシスコ・ザビエルも同じだった。
ようするに彼らは「親日」に変身してしまったのだ。
これそのものはなんとも嬉しいことだし、彼らをハグしてあげたい気持ちになる。
しかし、彼らが個人的にどれほど日本に好意をもっても、植民地主義覇権主義による「国策」と深く結びついた布教が、日本にも、彼らにも不幸をもたらしたのだった。
 
◼︎戦国の世に到来した嵐の正体
また、もう一つ彼らの布教活動を語る上で決定的に重要な要素がある。
それは、彼らが「イエズス会」に属していたということである。(①参照)
イエズス会は、ローマ教皇直属の布教のための最精鋭部隊だと言ってもいい。
プロテスタントに対抗し、カトリック再興を図るための逆宗教改革運動とも言える。
彼らは、自分が帰属する国家の利益のために働いていたが、それ以上にローマ教皇への絶対服従を条件に、国を超えて「イエズス会の利益」のために働いていた。
彼らは、国家を超えた集団だった。
自国以上に、イエズス会への帰属意識がきわめて高かった。
すなわち彼らはグローバリストだったのである。
戦国時代、日本国内で天下人の座をかけて戦いが繰り広げられていたとき、
世界を席巻していた植民地主義の波とともに押し寄せたのは、グローバリズムの激しい嵐であった。
 
◼︎初のキリシタン大名誕生で始まった日本売り
フランシスコ・ザビエルらによる、イエズス会の日本布教は驚くほどの成果をあげた。
ザビエルが布教を開始したわずか13年後の永禄5(1562)年、備前西部(長崎県)を統治していた大名大村純忠(すみただ)は、なんと自領内の横瀬浦港をイエズス会領として寄進してしまった。
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寄進というのは「寄付」である。
あげたのだ。 
大村は日本初のキリシタン大名である。
この翌年、ザビエルとともに来日したコスメ・デ・トーレス神父から洗礼をうけた。
トーレスはとともに日本に上陸した宣教師で、ザビエルがインドへ移動していった後の日本を託された男である。
ザビエルの方が有名だが、実のところ、カトリック布教を成功に導いたのはこのトーレスの功績である。

これは、隣接する松浦氏が支配していた領地の平戸港で、ポルトガル人殺害事件が起こったことをうけ、
彼らの保護と安全のために為されたことであったが、この日本国内に「ポルトガル領」が誕生した瞬間だった。
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大村は、横瀬浦内の数ヵ所に教会を建て、これらの教会に経済的利益を供与するために港の周囲約10キロの土地と農民をも教会に寄付した。
ちょっと信じられないことだが、領民は大村のつるの一声で教会の所有となってしまったのだ。
さらに、ポルトガルとの交易のために入港してくる商人に対して10年間の免除を決定した。
この政策により横浦港は急激に発展したのは言うまでもない。
このようなことは、天下統一のための重大な脅威とうつったことは当然だ。
大村の家臣や住民にも洗礼を受ける者が続出し、短期間のうちに12000名以上のキリシタンが生まれた。
この中には、教会のものとされた農民たちのように強制改宗させられた人々も多かった。 

大村純忠(すみただ)自身が、熱心なキリシタン信仰に入ったことは確かなようだ。
宣教師の教えに従って側室を去らせ、正室との貞節を守り通したというのだから一途な面もある。 
しかし純粋なだけに、彼の信仰心はイエズス会のそれであり、彼の忠誠心はひとえにローマ教皇へ捧げられるものとなった。
そして彼は教会の命により、領内への仏教徒の出入りを禁止し、寺社を破壊するという暴挙に出て行く。
 
◼︎洗礼の条件
同じく宣教師として日本で活動したルイス・フロイスの日本史に、大村純忠が洗礼を受ける下りが記録されている。
 
大村殿は、尊師が彼に一つのことを御認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでしょう。(フロイス日本史6 p.279)
 
アンダーライン部分をよくよく読んでほしい。
これでわかるように、洗礼を受ける条件は神社仏閣の焼却であり僧院の破却であったのだ!
しかし、大村家の事情により、すぐにはそれはできないが、彼らが自滅していくように仕向けるという約束を大村は申し出ているというのだ。
大村が洗礼を受ければ、日本初のキリシタン大名の誕生だ。
これには教会も興奮しただろう。
そのためにどれだけ労してきたことか。 
しかしこの報告を受けても宣教師は焦らない。
洗礼の条件をはっきりと告げている。
 
「時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」(同p.279)

ここで宣教師が確認している「なし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向
とは、
「時がきたら神社仏閣のできる限りを破壊し、一切支援せずに自滅させる」というそもそもの洗礼の条件のことだ。
諸事情で、今すぐにそれが実現できなくても、かならずそれを実行するという約束するならば洗礼をさずけよう!と言っているのだ。

ここに登場する宣教師は、言うまでもなく彼に洗礼をさずけたコスメ・デ・トーレス神父
である
ここに、イエズス会士たちによる布教という名の文化破壊が始まったのだった。
 
◼︎日本に誕生した十字軍
ザビエルは大親日になったし、トーレスもまた日本の文化に適応してきた。
それはザビエルが支持した「適応主義」の実践だった。
適応主義というのは、日本の文化を尊重し、日本人に受け入れられる格好をし、その風習に根ざして生きることを意味している。
彼らは確かに、それを実行した。
彼らは仏僧のような格好をして出歩いたし、日本人と同じような生活スタイルで生きることを徹底した。
だから庶民に受け入れららたし、好意を持たれた。
けれどもそれは、あくまでも日本人を獲得するための「手段」であって、彼らが心底からそれを望んでいたということは別だ。
 
だから彼らは、キリシタン大名に神社仏閣破壊を命じることができたのだ。
彼らにとって、異教文化は大切ではない。
それは廃れるべきものでしかないのだ。
大村は、純粋なキリシタン信者として、側室を去らせ正室との貞節を守り通したという固い意志を持っていた。
純粋であったがゆえに、イエズス会宣教師たちの「征服」のための忠実なコマと化してしまったのだ。
彼が鎧の上に羽織っていたという陣羽織には、地球のマークとイエス(JESUSとINRI)の 文字と十字架が描かれていたらしい。
そして戦ともなれば、彼に洗礼を授けたトーレス神父から贈られた十字架の旗をなびかせたという。
さながら、日本に誕生した十字軍である。
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イエズス会の驚くべき勇敢さと強い意志により、たった一人もカトリック教徒が存在しない日本で始められた布教。
しかし、それから14年後に初のキリシタン大名大村純忠(すみただ)が誕生して以来、
政治権力と結びついたカトリック教の侵略がいよいよ開始されたのであった。
 
つづく