BRIDGE ~世界に広げよう日本の心~

右でも左でもないど真ん中.石井希尚(Marre)のブログ

パラオの大和魂③ 語り継がれなかったわけ

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◼︎ペリリュー島の戦い
大東亜戦争(第2次世界大戦)末期、南洋諸島に展開していた日本軍は補給が途絶え、備蓄も尽き、負けるのは時間の問題だった。
しかし日本軍は降伏する事も逃げる事もなく、最後の最後まで戦う。
パラオペリリューという島がある。
南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁の小島だ。
当時、日本軍はフィリピンを防衛する為に、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していた。 
エメラルドグリーンの海に囲まれた、南洋の小島は、1944年9月ついに戦場となった。
これが、世に言うペリリュー島の戦い』である。
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この度、天皇皇后両陛下が慰霊をしたのは、この戦いで命を落とした英霊たちだ。
天皇陛下のおかげで、多くの人の知るところとなった。
日本は、中川州男陸軍大佐ひきいる守備隊1万2千の兵士のみ。 
対するアメリカ軍の兵力は4万8千以上で、武器も弾薬も日本の6倍以上。
日本軍には、もともと勝ち目はない。
これは、いかに長く持ちこたえるかの戦いだった。
1944年(昭和19年)9月15日早朝、ウィリアム・リュパータス率いる米軍が上陸を開始した。
圧倒的有利の米軍は、この地を三日で攻略する計画だった。
しかし日本軍は、決死の抵抗により、73日間も持ちこたえたのだった。
 
◼︎サクラ サクラ
しかし、米軍は空からも絨毯爆弾の雨を降らせ、海上に展開する戦艦からも砲撃を加えた。
次々に死んでいく日本兵
遂に兵力は60名をきった。
73日間の攻防の末、そしてついに日本軍玉砕の時がくる。
「もはやこれまで」と意を決した中川州男大差は、11月22日、パラオ地区集団参謀長宛に、訣別の電報を打つ・・・

『地区隊は本二十四日以降、統一ある戦闘を打切り、残る健在者約五十名を以て 遊撃戦闘に移行、あくまで、持久に徹し、米奴撃滅に邁進せしむ。重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。将兵一同聖寿の万歳を三唱、皇運の弥栄(イヤサカ)を祈念し奉る。
集団の益々の発展を祈る』
 
そして、中川州男大佐は、武士の作法に則って切腹した。
根本甲子郎大尉以下、55名になってしまった残存部隊は、最後の決死隊として突撃。
24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦し、全員玉砕した。
「サクラ・サクラ」
日本の情緒を伝えるこの二語が、軍旗も機密書類も、すべて焼却したことを意味する最後の暗号電文だった。
11月24日16時、参謀本部に電文は届いた。
さくら・さくら・・・
散りゆく桜の花のように、中川隊が最後まで戦い抜いて死んだことを告げたのだった。
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◼︎忘れ去られた真実
この戦いのことを、多くの日本人が知らない。
しかし、アメリカでも、あまり語り継がれなかった。
だから硫黄島の戦いのように、日本人の耳にも届かなかったのだ。
それは、米軍の最精鋭部隊といわれた「第一海兵師団」の死傷率が約50%と極めて高く、米国にとっても「不名誉な戦い」とされたからだ。
彼らにとって、語り継ぐのは恥をさらすことを意味した。
それほど、中川隊の戦いぶりは壮絶だったということだ。
日本を守るために、一日でも長く持ちこたえようと、必至に戦い、壮絶な死を遂げた彼らを我々は忘れてしまっていた。
でも、天皇陛下はおぼえていた
自分が始めた戦争ではない。
けれども、陛下は彼らの慰霊のために、日本国民を代表して訪れて下さった。
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