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BRIDGE ~世界に広げよう日本の心~

右でも左でもないど真ん中.石井希尚(Marre)のブログ

到来! 日本VSカトリック教の戦い!② 始まった破壊!!


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◼︎オルガンティーノの価値観を変えた日本
日本でのカトリック教普及の最大の功労者は誰あろう織田信長である!
新し物好きの信長はキリスト教布教を認め自らも彼らと議論することを好み、信長が彼らを保護したことが、カトリック普及の歴史にとって決定的に重要なプラス要素となったことは周知のことだ。
信長は安土城に宣教師を招いて、自ら接待し、宗教談義を楽しんだ。
フロイスという宣教師とは何十回も面会している。
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彼と親しくなった一人にイエズス会の宣教師ルガンティーノがいる。
彼はイタリア人だが、はやりイエズス会に属していた。
オルガンティーノも日本の風土と日本人に魅せられ大の親日家となった。
彼はこう記している。
 
われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。
(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる。
またこうも言っている。
日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない。
 
当時の彼らにとって有色人種は支配すべき種族であって、奴隷化することは「常識」だったし、それは社会構造であったから、そこになんら疑問を感じていなかった。
実際「神に仕える」はずの宣教師たちは黒人の奴隷たちを伴って来日している。
信長はそんな黒人奴隷のひとりを買い取っている。
信長はその黒人をサムライにしてやった。
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ヨーロッパ人にとって、異教徒は教化の対象であってあくまでも未開人だった。
ところが、オルガンティーノは、日本人とその文化に触れることで、自分たちの有様が野蛮で「果たして自分たちは文明人と言えるのか」と自問せざるをえなくなったというのだから、日本が与えた影響は計り知れないほど大きい。
その衝撃は①でも書いたようにフランシスコ・ザビエルも同じだった。
ようするに彼らは「親日」に変身してしまったのだ。
これそのものはなんとも嬉しいことだし、彼らをハグしてあげたい気持ちになる。
しかし、彼らが個人的にどれほど日本に好意をもっても、植民地主義覇権主義による「国策」と深く結びついた布教が、日本にも、彼らにも不幸をもたらしたのだった。
 
◼︎戦国の世に到来した嵐の正体
また、もう一つ彼らの布教活動を語る上で決定的に重要な要素がある。
それは、彼らが「イエズス会」に属していたということである。(①参照)
イエズス会は、ローマ教皇直属の布教のための最精鋭部隊だと言ってもいい。
プロテスタントに対抗し、カトリック再興を図るための逆宗教改革運動とも言える。
彼らは、自分が帰属する国家の利益のために働いていたが、それ以上にローマ教皇への絶対服従を条件に、国を超えて「イエズス会の利益」のために働いていた。
彼らは、国家を超えた集団だった。
自国以上に、イエズス会への帰属意識がきわめて高かった。
すなわち彼らはグローバリストだったのである。
戦国時代、日本国内で天下人の座をかけて戦いが繰り広げられていたとき、
世界を席巻していた植民地主義の波とともに押し寄せたのは、グローバリズムの激しい嵐であった。
 
◼︎初のキリシタン大名誕生で始まった日本売り
フランシスコ・ザビエルらによる、イエズス会の日本布教は驚くほどの成果をあげた。
ザビエルが布教を開始したわずか13年後の永禄5(1562)年、備前西部(長崎県)を統治していた大名大村純忠(すみただ)は、なんと自領内の横瀬浦港をイエズス会領として寄進してしまった。
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寄進というのは「寄付」である。
あげたのだ。 
大村は日本初のキリシタン大名である。
この翌年、ザビエルとともに来日したコスメ・デ・トーレス神父から洗礼をうけた。
トーレスはとともに日本に上陸した宣教師で、ザビエルがインドへ移動していった後の日本を託された男である。
ザビエルの方が有名だが、実のところ、カトリック布教を成功に導いたのはこのトーレスの功績である。

これは、隣接する松浦氏が支配していた領地の平戸港で、ポルトガル人殺害事件が起こったことをうけ、
彼らの保護と安全のために為されたことであったが、この日本国内に「ポルトガル領」が誕生した瞬間だった。
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大村は、横瀬浦内の数ヵ所に教会を建て、これらの教会に経済的利益を供与するために港の周囲約10キロの土地と農民をも教会に寄付した。
ちょっと信じられないことだが、領民は大村のつるの一声で教会の所有となってしまったのだ。
さらに、ポルトガルとの交易のために入港してくる商人に対して10年間の免除を決定した。
この政策により横浦港は急激に発展したのは言うまでもない。
このようなことは、天下統一のための重大な脅威とうつったことは当然だ。
大村の家臣や住民にも洗礼を受ける者が続出し、短期間のうちに12000名以上のキリシタンが生まれた。
この中には、教会のものとされた農民たちのように強制改宗させられた人々も多かった。 

大村純忠(すみただ)自身が、熱心なキリシタン信仰に入ったことは確かなようだ。
宣教師の教えに従って側室を去らせ、正室との貞節を守り通したというのだから一途な面もある。 
しかし純粋なだけに、彼の信仰心はイエズス会のそれであり、彼の忠誠心はひとえにローマ教皇へ捧げられるものとなった。
そして彼は教会の命により、領内への仏教徒の出入りを禁止し、寺社を破壊するという暴挙に出て行く。
 
◼︎洗礼の条件
同じく宣教師として日本で活動したルイス・フロイスの日本史に、大村純忠が洗礼を受ける下りが記録されている。
 
大村殿は、尊師が彼に一つのことを御認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでしょう。(フロイス日本史6 p.279)
 
アンダーライン部分をよくよく読んでほしい。
これでわかるように、洗礼を受ける条件は神社仏閣の焼却であり僧院の破却であったのだ!
しかし、大村家の事情により、すぐにはそれはできないが、彼らが自滅していくように仕向けるという約束を大村は申し出ているというのだ。
大村が洗礼を受ければ、日本初のキリシタン大名の誕生だ。
これには教会も興奮しただろう。
そのためにどれだけ労してきたことか。 
しかしこの報告を受けても宣教師は焦らない。
洗礼の条件をはっきりと告げている。
 
「時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」(同p.279)

ここで宣教師が確認している「なし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向
とは、
「時がきたら神社仏閣のできる限りを破壊し、一切支援せずに自滅させる」というそもそもの洗礼の条件のことだ。
諸事情で、今すぐにそれが実現できなくても、かならずそれを実行するという約束するならば洗礼をさずけよう!と言っているのだ。

ここに登場する宣教師は、言うまでもなく彼に洗礼をさずけたコスメ・デ・トーレス神父
である
ここに、イエズス会士たちによる布教という名の文化破壊が始まったのだった。
 
◼︎日本に誕生した十字軍
ザビエルは大親日になったし、トーレスもまた日本の文化に適応してきた。
それはザビエルが支持した「適応主義」の実践だった。
適応主義というのは、日本の文化を尊重し、日本人に受け入れられる格好をし、その風習に根ざして生きることを意味している。
彼らは確かに、それを実行した。
彼らは仏僧のような格好をして出歩いたし、日本人と同じような生活スタイルで生きることを徹底した。
だから庶民に受け入れららたし、好意を持たれた。
けれどもそれは、あくまでも日本人を獲得するための「手段」であって、彼らが心底からそれを望んでいたということは別だ。
 
だから彼らは、キリシタン大名に神社仏閣破壊を命じることができたのだ。
彼らにとって、異教文化は大切ではない。
それは廃れるべきものでしかないのだ。
大村は、純粋なキリシタン信者として、側室を去らせ正室との貞節を守り通したという固い意志を持っていた。
純粋であったがゆえに、イエズス会宣教師たちの「征服」のための忠実なコマと化してしまったのだ。
彼が鎧の上に羽織っていたという陣羽織には、地球のマークとイエス(JESUSとINRI)の 文字と十字架が描かれていたらしい。
そして戦ともなれば、彼に洗礼を授けたトーレス神父から贈られた十字架の旗をなびかせたという。
さながら、日本に誕生した十字軍である。
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イエズス会の驚くべき勇敢さと強い意志により、たった一人もカトリック教徒が存在しない日本で始められた布教。
しかし、それから14年後に初のキリシタン大名大村純忠(すみただ)が誕生して以来、
政治権力と結びついたカトリック教の侵略がいよいよ開始されたのであった。
 
つづく

到来!日本VSカトリック教の時代①

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◼︎沈黙が封切られ遠藤周作の原作であるが、再び売れている。
日本人がハリウッド映画に出た〜ということで日本人は喜んでいるが、封切られた最初の週で第4位だった。「君の名は」には遥か及ばない。
アメリカでは制作費がカバーできるかどうかわからないほどの不当たりだ。
そうは言っても、多くの外国人がこの映画を見て、日本で起こったキリスト教弾圧の歴史を知ることとなった。
この映画をみた外国人の殆どには日本人の残虐さが印象付けられることだろう。
当時の日本がなぜキリスト教を禁止したのかを理解しない限り、ただ日本人が野蛮人であるかのようにうつる。
だから僕はWNDのレヴューで歴史的背景について書いた。
👉http://www.wnd.com/2017/01/what-promoters-of-silence-wont-tell-you/
多くのアメリカ人が、歴史的背景を教えてくれてありがとうとメッセージをくれた。
今回はさらに少し歴史を遡って、室町時代の後期、カトリックの宣教師が極東の島国までやってくることとなった歴史を確認しよう。

◼︎それはザビエルが鹿児島に漂着したことから始まった

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そもそも、何故ザビエルがわざわざ、極東までやってきたのか。
これが分からないと、すべてを見誤る。
さあ、歴史認識のお時間です!
一体なぜ、ザビエルは日本に来たのか…。
それは当時の時代がそうさせたのだと言える。
もちろん彼には「布教」という目的があった。
これには疑いの余地はない。
しかしなぜ日本まで来たのかという理由が問題だ。 
その理由とは「この時代」である。  
「この時代」を理解しなければ、カトリック布教の目的も理解できない。
世界はスペインとポルトガルによる大航海時代に突入していた。

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それは、すなわちスペインとポルトガル植民地主義による覇権争いの時代である。
スペインとポルトガルは、有色人種世界を次々と植民地化し、人々を奴隷として、世界戦略上の利益拡大のために競い合っていたのだ。
世界布教はその戦略的スキームとして展開されたのである。

◼︎アフリカ進出
少し時計の針を戻してみよう。 
コロンブス(スペイン)がアメリカ大陸に到達する数十年前の1411年、ポルトガルは、アフリカ北岸の商業都市セウタに攻め込み自国の領とした。
それは、この地域からイスラム勢力を駆逐し、キリスト教を振興させることが目的だった。
それだけではない。
当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る海域はイスラムの大国オスマントルコ帝国が支配していて、インドや東南アジアとの交易を独占していたから、ポルトガルはアフリカ大陸を迂回してアジアに西廻りの交易ルートを開拓することによってオスマントルコに独占されていた莫大な利益を奪おうとしたのだ。
ローマ教皇ニコラウス5世は、アフリカの大西洋沿岸の土地や島を探検し、そこで発見したすべてを所有する独占的な権利をポルトガルに与えていた。

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だから、ポルトガルはやりたい放題にアフリカ西岸を物色し、ついには1488年、探検家バーソロミュ・ディアスがアフリカ西岸の最南端に到達した。
彼の旅には、東への航路発見以外に、もう一つの目的があった。
それはアフリカ奥地にあると言われていたキリスト教国を探しにいくことだった。
この国は、おそらくエチオピアのことで、当時のヨーロッパにプレスター・ジョンという英雄がいるという伝説が伝わっていたのだ。
カトリック教徒たちは、このプレスター・ジョンを探していた。
これはこれで面白い歴史だ。
ちなみに、ニコラウス5世は1452年、ポルトガル王アフォンソ5世に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。これが白人至上主義である。
ディアスは1487年8月にリスボンを出航した。
だが、途中で嵐にあって二週間以上も漂流した。
そしてついに1488年1月、アフリカ大陸西岸の最南端の岬を発見した。
彼はその岬を「嵐の岬」と名付けた。この海域は波が激しいらしい。
この場所から、東に向かい海が開かれている美しい景観を見たディアスの興奮はどれほどだっただろう。「ついにやった!東へいけるぞ!」と思っただろう。
この報告を受けたポルトガル王ジョアン2世は、この岬を喜望峰と改めた。
Cabo da Boa Esperança 良い希望の岬、という意味だ。
ついにオスマン帝国を回避して、東の利権を奪い取るルートを発見したわけだから、彼らにとって「良い希望、グッドホープ」だったというわけだ。

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◼︎ペン一本で世界を二分したトルデシリャス条約
一方スペインは、大西洋を横断して西回りにアジアに至ろうとコロンブスの船団を派遣した。
そして、ポルトガル喜望峰到達から遅れること5年、アメリカ大陸に到達した。
彼らは「インドにたどり着いたぞ!」と大いに喜んだが、そこは「新大陸」だったのだ。
だから、アメリカ先住民はインディアンと呼ばれるようになった。
コロンブスがこの航海から帰還すると、スペイン王とポルトガル王は新たに「発見」された地への入植や権利をめぐって対立するようになった。
東回りのポルトガルと、西回りのスペインが、次々と「発見」される「新大陸」を我が物とするために競合していたのである。
この利権争いは激化し、ついにはローマ教皇教皇アレクサンデル6世がが解決に乗り出した。

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教皇は世界地図をしげしげと眺めてからペンを取り、地図上に赤道と直角に、つまり南北を結ぶ一本の線をひいた。そしてこう言ったのだ。
「ここからこっちはポルトガル。こっちはスペイン」
なんと、ローマ教皇の権威において、地球を二分割してポルトガルとスペイン両国に支配を許す勅許を与えたのである。
これが、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約だ。
この条約で、西アフリカのセネガル沖にあるカーボベルデ諸島の西1770kmの海上(西経46度37分)の場所に「子午線」をひき、その東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。
あっと驚くことだし、恐ろしいほどの傲慢だ。
全地球を自分たちのものとして支配するというのだから。
ところが、地球は丸いから、その裏側はどっちに属するんだ!という帰属問題が起こった。
そこで1529年に、新たに裏側にもう一本の線がひかれた。
これをサラゴサ条約という。

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ところが、領域の解釈上の問題で、両方の勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。
特に両国は、東南アジアのモルッカ諸島の帰属をめぐって猛烈に争った。
理由は香辛料だ。
ここは香辛料の産地で、ヨーロッパ人の間ではスパイス諸島と呼ばれていた。
そして、日本はこの微妙は領域に位置していたのである。

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◼︎植民地主義による覇権争いが運んだ宣教師たち
ポルトガルフランシスコ・ザビエルは、日本をポルトガルの支配下に置こうとした。
だがスペインもフィリピンのルソン島を実力支配し、そこから中国、日本に勢力を拡大しようと画策していた。
ポルトガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に日本を植民地化しようと、時の為政者たちに近づいていったのだった。
この時代に世界に遣わされた宣教師たちが、個人的にどんなに素晴らしい信仰者であっても、
侵略による世界支配は彼の良心を傷つけることはない。
植民地主義は彼らの常識だったのだ。
これがわざわざザビエルが日本までやってきた「時代」である。

◼︎マルチン・ルターの波紋
しかし、それだけではない。それに加えてヨーロッパ社会にとてつもなく大きな波がおこった。それえはマルチン・ルターの宗教改革である。
1517年10月31日、ドイツ人神学者マルティン・ルター「95ヶ条の論題」という文書をヴィッテンベルクの教会の門に貼りだした。
これは免罪符の販売など、中近世のローマカトリックの重大な誤りを正す文書であった。
政治権力と結びついた教会の歪な形を非難し、聖書のみに権威を置いた。
カトリック世界に衝撃が走った。これがプロテスタント(抗議)運動の起こりである。
ルターが放った一撃は、わずか数年でイングランドにも深く浸透した。
イングランドは、後にカトリックから離脱し、英国国教会国家(プロテスタントに近い)となっていく。
後にオランダもスペインから独立していくが、オランダはプロテスタント国家となった。
カトリック教会は、プロテスタントにより多くの信者を失っていったのである。

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◼︎失われた領域回復のために登場した結社
このような時代に結成されたのがイエズス会である。
イエズス会の目的を著名な牧師/キリスト教著作ヘンリーH.ハーレーは端的にこう書いている。
 
プロテスタント、モハメット教により失われた領域を回復すること、
ローマカトリック強化による異教国征服、とを目的に設立された教団

                             
フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の設立メンバーの一人であり最も優秀な宣教師の一人であった。
イエズス会は、堅い意志と信念により目的を実現するための最強のカトリック結社であったといっても過言ではない。
彼らはカトリックの復興と回復のために文字通り命をかけた勇敢な男たちであった。
カトリックの利益と未来のために、未開の地へと旅立っていったのである。
ザビエルの関心はアジア、とりわけ中国に向いていた。
しかし、中国に向かう途上、マラッカで偶然にも歴史資料上日本人初のカトリック教徒「やじろう(あんじろー)」に出会う。
やじろうは若い頃に人を殺し、薩摩に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れたのであったが、その罪を告白するためにザビエルを訪ねたという。
ザビエルが初めて遭遇した日本人である。
彼は、やじろうから聞く日本という国に興味を持った。
そして、中国に向かう前にぜひみてみたいと思ったのである。
かくして、1549年8月15日、ザビエルはついに日本に上陸したのだった。
もうお判りだろう。
ザビエルがわざわざ極東の島国日本にやってきた理由が。
それは植民地主義によるポルトガルとスペインの覇権争いの結果であり、プロテスタント勢力に利益を奪われたカトリック教の起死回生をかけた復活プロジェクトの結果だったのである。

◼︎衝撃を味わったザビエル
日本はザビエルに衝撃をあたえた。
日本は彼が、知っていたアジアのどの国とも違っていたのだ。
ローマに送った書簡に彼はこう書いている。

日本についてこの地で私たちが経験によって知りえたことを、あなたたちにお知らせします。
第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。

彼らは、キリスト教徒以外は野蛮だと信じていた。
有色人種は搾取する対象であって、彼らは植民、つまり奴隷でしかないのだから。
しかしザビエルの目にうつる日本人は、異教徒の中で最高だった。
日本は、イエズス会の最優秀宣教師フランシスコ・ザビエルの価値観を一撃で変えたのである。
ザビエルは日本人が好きになった。
しかし、どんなに彼が素晴らしい信仰者で親日であっても、彼はイエズス会でありポルトガル人なのだ。
カトリックと国家のために尽くしていた。
覇権主義と無関係に神の愛を語る布教活動は、彼らの意識の中には全く存在していなかったのである。
これこそが、その後「沈黙」の時代に続く不幸な「日本VSカトリック教」という不幸な対立構造を生み出した原因である。

それはどのように起こったのか…
この続きは次回。



メキシコ人映画プロデューサーがトランプ大統領を支持する訳

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2月2日
​先日、ハリウッドの映画プロデューサーエドゥアルド・ヴェラステーギに会った。
彼が制作したリトルボーイは日本でもロードショーされたね。

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映画サイト👉 http://littleboy-movie.jp
​共通の知り合いプロデューサーの紹介で、わざわざキックバックカフェ(http://www.kickbackcafe.jp)まできてくれたんだ。
とて誠実で素晴らしい人だったよ。
メキシコ出身だし、今も家族がメキシコにいるから、トランプ新大統領についてどう思うか聞いてみた。
僕はてっきり、エドワルドトランプ大統領を批判すると思っていた。
メキシコ人はレイピストだとか、彼らがアメリカの雇用を奪っているなどと言ってメキシコを非難し、国境には壁を作り、その費用はメキシコに支払わせると言ってるわけだからね。
ところが彼は、トランプ大統領について、三つの点で非常に高く評価していた。
 
◼︎中絶反対の大統領令
一つ目は、トランプ大統領が世界各国で人工妊娠中絶を支援する非政府組織(NGOへの助成を禁じる大統領令に署名したことだ。
これは、中絶に反対する保守派の意向を汲んだ政策で、オバマ政権からの大転換となった。
日本では全くと言っていいほど話題にならないが、アメリカでは中絶に賛成か反対かで国論は二分される。
大統領候補は立候補をしたら、自分が中絶に反対か賛成かを必ず表明しなければならない。
中絶に反対であればキリスト教保守派の支持を取り付けられるし、賛成派であればリベラル勢力から支持されるからだ。
トランプ大統領は、彼の個人的な信仰がどうであれ、キリスト教保守派の考えを代弁する政策を打ち出して選挙を戦った。
だから白人保守派キリスト教の80%以上が彼を支持した。
その目玉スローガンの一つは、中絶に反対であることを明確に打ち出すことであり、就任後速やかにサインした大統領令は、保守派を満足させるものだった。
エドアルドは、メキシコ生まれのカトリク教徒だ。
個人的に話しをさせていただき、彼の人生の紆余曲折を聞いたが、彼は相当熱心なカトリク信者である。
そして、「命の尊厳」という大きな命題について、はっきりとした考えを持っている。
彼が映画制作会社を立ち上げ最初に携わった作品が「ベラ」という社会派映画で、まさに中絶問題を取り上げたものだ。

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👉http://bellamoviesite.com
この映画によって、生まれる前に処分されるはずだった6000人以上の赤ちゃんの命が救われたという。
この数字は、映画を見て「中絶せずに産むとにした」というレスポンスを直接送ってくれた母親の数だそうだ。だから、実際にはもっと多いだろうと嬉しそうに語ってくれた。
彼は『Pro Life』、すなわち中絶反対派なのだ。
その思いは真剣で、映画制作へと彼を駆り立てたほどだ。
だから、彼はトランプ大統領がメキシコを非難しようがなんだろうが、「命の尊厳」という、もっと大きな根源的な命題についての政策に賛同できるから、この点についてトランプを支持しているのだ。
 
◼︎最高裁判事の人事
1月31日の夜、大統領によって最高裁判事に指名されたニール・ゴーサッチの人選については、まさに保守派がトランプを支持してきた最大の理由と言える。
米国の最高裁判事は、違憲訴訟などの政策の差し止めをする権限を持っているため、ゴーサッチが正式に最高裁判事に就任すれば、保守主義に立った政策が実行にうつされていく可能性が高くなる。
保守主義というのは、簡単にいえば「古き良きアメリカ」である。
それはWASP(白人・アングロサクソンプロテスタントがつくったアメリカ建国の精神であり、そこに戻ることこそが保守派の最大の願いである。
アメリカでは同性婚が合法となっている州もある。
公立学校では「お祈り」をすることさえ禁止されてしまった。
我々日本人としては、ミッションスクールじゃないんだから、当然じゃない?と思うかもしれないが、そもそも建国の精神にもどれば、白人キリスト教徒が作った国なのだから、公立学校はお祈りをする場であって、それが禁止されるなどというのは、保守からすれば「世も末」なのだ。
 
◼︎入国制限
イスラム7カ国からの入国一時停止という大統領令が物議を醸しているが、これに半数以上のアメリカ人が賛成している。
これも、古き良きアメリカの精神にたてば当然のことだ。
アメリカを建国した人々自身が移民であったことは言うまでもないが、彼らが作り出した国は、あくまでもWASP(白人・アングロサクソンプロテスタントの国なのだから。
カリフォルニア州にいけばわかるが、メキシコ人の人口は爆発的に多く、そもそものWASPはマイノリティになりつつある。
だから、本当は元のアメリカに戻したいと思っている人が多いのだ。
それが、トランプが大統領に選ばれた最大の理由である。
 
◼︎保守主義が支持する三つのこと
①トランプはキリスト教保守派の立場に立ち、中絶に資金が流れないようにした。
②そして彼は、古き良きアメリカの白人キリスト教保守派の信条の擁護者であるがゆえに、イスラム教徒に対しては厳しい。
③しかしそれは、中絶や同性婚に反対し、伝統的な家族の概念を守る考えである。
 
エドゥアルドは、国境に壁を作るなんてとんでもない!言ってるが、トランプ大統領を非難しながらも、上にあげたキリスト教保守主義の3つの観点からトランプ大統領を評価しているのである。
このような側面はなかなか日本のメディアではとりあげられないアメリカの現実である。
​ 
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エドゥアルド・ヴェラステーギ

沈黙 -サイレンス- 映画が語らない真実

 

 
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2017年1月19日

◼︎スコセッシの励まし?それとも皮肉?

 過日、スコセッシ監督の映画「沈黙」の試写会が、牧師や神父などを対象に行われ、招待していただいたので観に行ってきた。

エンドロールで、スコセッシ監督からのメッセージが浮かび上がった。

「日本の牧師/神父たちに捧ぐ」

僕はこれはなんの皮肉かと思った。

日本にキリストの福音を伝えるべく奮闘している日本人牧師、あるいは神父たちに、敬意を表してのことなのか、あるいはエールを贈るためなのか。

エールを贈るためだとしたら、「この映画の主人公である宣教師たちのように歩め」と励ますつもりなのか。

 

僕は10代のときに、この映画の原作「沈黙」を読んだ。

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そしてその頃、激しく論争したテーマを思い出した。

それは、17歳のときに仲間と作ったフリースクールで開催した歴史授業だった。

僕たちは、日本の教育システムに疑問を持ち、全く新しいスタイルの

「生徒のための生徒のつくった生徒の学校」という謳い文句で、寺子屋学園」という自発的な学びの場を創り出していた。

日本初のフリースクールとして様々なメディアに取り上げられた。

僕は、恥ずかしながらいっぱしの「教育運動家」という評価を与えられていた。

そんな頃のことだ。

その日、ゲスト教師はいった。

 

「今日は『神はいない』という授業をやります!」

 

僕たちは仰天した。歴史の授業なのになぜ?

すると彼は言った。

神はいない。なぜなら神は江戸時代に迫害されているキリシタンたちを助けなかったからだ!

 

彼は当時の隠れキリシタン弾圧がどれほどシビアなものであったかを語り出した。

そう、ちょうど「沈黙」の舞台となった時代のことだ。

「神が全能なら、彼らを助けられたはずだし、神が愛なら助けるべきだった!」と。

しかし、「デウスが神なら助けてくれるだろ!」と罵倒した人々の声が勝ったのだ。

だから、神はいないのだ。

僕はそのスクールの主催者として、そう結論づけた。

 

すると、その場にいた一人の同い年の女の子が泣きだして叫んだ。

 「違うの!違うの!」

 

僕は彼女に食ってかかって言った。

何が違うんだ。お前もしかして、神を信じてるのか?だったら、どうして神は助けなかったのか説明してみろ!

しかし彼女は「違うの!違うの!」と泣き続けるだけだった。

 正義感に燃える反体制教育運動家は、純粋無垢な日本人を助けなかった神への怒りを抱いた。

しかもそれは、ヨーロッパ人がやってこなければ、起こりえなかった悲劇なのだ。

彼ら自身が持ち込んだ異質な教えの結果、多くの日本人がいわれのない苦しみを体験し、しかも、その神は、彼らを見殺しにしたのだ。


これがキリスト教なら誰が信じるか!

こんなものはいらん!


僕は激しくキリスト教に嫌悪感を抱いた。

当時の僕がそうであったように、白人による植民地主義という歴史の中で繰り広げられたカトリック宣教に対する疑問こそ、隠れキリシタン迫害の歴史に際して多くの日本人が抱く思いであり、それは日本の文化伝統への愛着心が強ければつよいほどエスカレートする。

この映画は、その不幸な歴史を再びスクリーンに甦らせ、「聖書の神」を知らない日本人からますます神を遠ざける要因となるだろう。

それなのに、日本の牧師や神父に捧ぐ?

監督は皮肉を言いたかったのか?

 

 ◼︎遠藤周作カトリックなのか?

原作者の遠藤周作は、日本を代表するカトリック文学者として知られている。

しかしこの宗教は、彼が叔母の影響で着せられた洋服であると彼自身著作の中で述べているように、彼が自発的に受け入れたものではない。

カトリックの洗礼をうけて以来、彼は自分が背負わされた重荷と格闘し、カトリック信仰が日本には合わないと抵抗し続けた。

しかし彼はカトリックであり続けた。

それはひとえに母に対する愛情である。

 

また、彼はイエスの復活を聖書の記述どおりには信じていなかった。

彼にとっての復活は「弟子たちの心の中に甦った」というものだ。

「何らかの宗教的体験」により、臆病者だった弟子たちは豹変したのだと。

しかしそれは、聖書に記述されているとおりの「肉体をもっての復活」であるかどうかは彼の中では明確になっていない。

 

少し専門的な話になってしまうが、彼はイエスの復活と昇天の結果として天から与えられたデュナミス古代ギリシャ語)と呼ばれる「聖霊の力」を知らなかった。

これは死者の中からイエスをよみがえらせた「いと高き方の力」として聖書に記されている。

聖書的な視点に立てば、弟子たちはこの「力」によって劇的に変えられたのだ。

 

ところが彼の著書を見ると、彼はこの力の存在を全くほとんどと言っていいほど無視している。
復活の謎を取り扱った著作「キリストの誕生」においても、弟子たちを「豹変」させた力の源泉についての「聖書的な記述」については全く触れていない。

つまり彼は聖書の記述を全面的には信じていなかったということだろう。

 

彼にとって、死をも恐れず迫害に絶え、壮絶な最期を遂げた初代の弟子たちの「力」の源は「不明」であって、彼自身もそれを知らなかったのだ。

迫害に絶えうる「力」など彼にとっては想像できないことであったのである。

だから、彼の描いたイエスは奇跡など行うことができない弱い男であった。

故に、彼は苦悩した。

沈黙という作品は、そんな彼自身の葛藤の記録であると言ってもいい。

そして、彼が直面した最大の問題は、日本の歴史に刻まれたカトリック教会の負の歴史であり、

「歴史的悲劇の中で、なぜ神は黙しておられたのか…」

ということだったのである。

 

しかしこれは、およそすべての時代のあらゆる悲劇に当てはまるものだ。

ユダヤ人にとっては「神はなぜホロコーストを許されたのか」という命題に通じるだろうし、

現代アメリカで言えば、神はなぜ911を事前に止めてくださらなかったのかということに相通じる。

そしてこれは、おそらく多くの者が、個人の生活において、その信仰がなんであれ、一度は自問したことがある問題であるのではなかろうか。

”どうして神は、一番助けが必要だったときに「沈黙」されていたのか?”

 

この命題に対して、成熟した信仰者なら、自分なりの格闘の末、答えを導きだし、それでも神への信頼をあつくするだろう。

しかし、あるものは神に背を向ける。

これはすべて神を信じるものが深く自問し、各自が答えを見出すべき問題である。

 

だが、悲劇はこの「沈黙」という作品が有名な文学者によって書かれたものであることだ。

日本では「キリスト教」を学習する代表作として、とある仏教大学で必読図書になっている。

比較宗教学では「キリスト教を知るために」必ずといっていいほど取り上げられる作品なのだ。

個人の苦悩が、あたかもキリスト教信仰の本質であるかのように理解され、論じられる結果を生み出したことは非常に残念なことである。

 

一人のカトリック教徒が苦悶を、どうして、わざわざ圧倒的多数の非キリスト教徒に知らしめ、カトリック信者に内在する自己矛盾を発表する必要があろうか?

自問自答は個人的な祈りの中ですればいい。

イエスは「奥まった部屋で祈れ」と教えている。

  

◼︎なぜ日本はキリスト教を禁止したのか? その歴史的変遷

さて「沈黙」はフィクションではある。

まずこの点は押さえておかなければならない。

しかし、歴史的事実に基づいて創作された作品である。

ゆえに歴史的事実を正しく理解しておく必要がある。

”なぜ、当時の日本はキリスト教を禁止したのか!”

この点について正しく理解した上で映画を見ることがもとめられる。

だがこれこそ、すなわち「なぜ日本がキリスト教を禁止したか」という歴史的背景こそが、映画が「沈黙」する不都合な真実である。

これを知らなければ、観客の多くは、不正確にデフォルメされた情報が、あたかも「歴史的真実」であると思い込む誤りに誘導されてしまう。

イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカオからフィリピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような手紙を出した。

 

私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。

 
もっとも、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。

何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服が可能な国土ではないからである。

 

しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時ととに非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。

       

ヴァリニャーノが書いた「シナにおいて陛下が行いたいこと」とは「スペインによる中国の植民地化」である。

 日本は強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、というのである。

彼は非常に優れた人物であって、当時の日本でも尊敬を得ていた。

しかし、この書簡からもわかるように、イエズス会の世界宣教は、宣教師の派遣国の植民地主義と深く結びついていたことは今更、僕が言うまでもない。

 

さらに、1570年から81年まで10年以上も日本に住み、イエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルも1584年6月27日付けでスペイン国王にこう書き送った。

 

私の考えでは、この政府事業(中国植民地化)を行うのに、最初は7千〜8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。

日本に駐在しているイエズス会バテレン(神父)達が、容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半、または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。

 

彼が住んだ日本は、戦国時代である。

それは、日本が天下人の椅子をかけて戦っていた侍たちの時代であり、日本の歴史の中でも最も勇敢な武将たちが活躍した時代でもある。

また、現代の時代劇で最も人気のある時代でもある。

その時代の「戦う武士」たちをその目で見た彼は、日本の侍たちがいかに強いかを知っていた。

そんな彼らを中国征服のための軍事力としてみなしていたのである。

 

神に仕えるはずの神父たちは、何よりも国家に仕えていた。

そして、国家的な征服事業と連動して、そのスキームの一つとして宣教活動を展開していたのである。

侵略と無関係の「神の愛」の宣教は、キリスト教ローマ帝国の国教と化して以降の世界史上に存在しない。

「教会」と「政治権力」が結びついたとき、イエスの福音の本質は歪められ、政治の道具としての為政者の為のキリスト教が隆興したのである。

これこそが悲劇である。


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 ◼︎秀吉によるバテレン追放令の背後にあった奴隷売買の実態

キリシタン宣教師の中でも、イエズス会日本準管区長ポルトガルガスパール・コエリョは最も行動的であった。

コエリョイエズス会の日本での活動の最高責任者にあたる。

彼は、1585年には宣教を優位に進め、キリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求めたり、最も天下人に近かった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めたりした。

その際に、キリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束したのだ。

つまり彼は、キリシタン勢力を利用して、日本国内に実質的なポルトガル領を作ろうとしたのである。

さらには、秀吉の「朝鮮出兵」を支援し、日本の技術では作ることのできない大型軍艦2隻を提供すると申し出ている。

 

これでわかるように、当時の宣教師たちの働きは極めて政治的であり、彼らは、日本のキリシタン大名を背後から支配し、秀吉に対抗しうる勢力として力をつけていたのである。

 

しかし秀吉は馬鹿ではない。

バテレンたちが、極東を支配しようとするヨーロッパの国家的野望に則って活動していることを当然のごとく見抜く。

そして彼らが政治的脅威であると自覚していった。

それでも彼はキリスト教に寛容であった。

 

だが、九州を平定した後、秀吉は信じられない事実を発見する。

それは、キリシタン大名たちが、武器弾薬を求め、ポルトガルの奴隷商人の手引きをし、日本人を奴隷として売り飛ばす悪行に加担していた事実である。

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1587年、秀吉は大坂城に、ガスパール・コエリョを呼び、

日本人奴隷の売買を中止し、海外のすべての日本人を帰国させることを命じている。

そして彼は、1587年6月18日「バテレン追放令」を発布した。

その条文の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定があるのである。

つまりこれは、当時の日本がキリシタンに懐疑的になっていった理由が、キリスト教国の奴隷貿易と直接的に結びついていたことを雄弁に物語る歴史的証拠なのである。

 1582年にローマに派遣された有名な「日本人少年使節団」一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。

 
我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。

 

ポルトガルやスペインなどと深く結びつき始めたキリシタン大名たちは、バテレンを通じてのキリスト教コネクションにより、それまでの日本人が考えもつかなかった「同胞を外国に売り飛ばす」ことに手を染めるようになっていた。

この、日本史上かつてなかった驚天動地の出来事を知るに至り、秀吉はその背後にいる宣教師追放令を出したのである。

 キリシタン大名たちによる日本人奴隷売買の現実に、カトリック教会は「沈黙」してはならない。

 

 ◼︎それでも寛容だった秀吉

それでも、国内のキリシタンが弾圧をうけたわけではない。

領民が自発的に信仰を持つことはなんら問題ないと規定された。

宣教師たちも国外退去させられたわけでなく、彼らは暗黙の了解で活動を続けていた。

これは大事な歴史的事実である。

日本人が、ただ無節操にキリシタンを弾圧した「残酷」で「野蛮」な人種であったわけではないのである。

 

しかし、その後に起こったスペイン船「サン=フェリペ号」事件をきっかけに、スペインが宣教師を使って植民地支配を広げているという情報が秀吉の耳に入る。

ここに至って、秀吉はキリシタン禁止の法律を実行に移していったのである。

 

◼︎豊臣vs徳川最後の戦いにおけるキリシタン勢力

秀吉の死後、日本を二分した豊臣徳川という2大勢力の最後の戦争「大阪の陣」において、徳川が最も恐れたのは、秀吉の息子「秀頼(ひでより)」が、キリシタンを容認することを条件に、彼らをを受け入れていたことだった。

明石全登を筆頭に、3千名からのキリシタン侍たちが大阪城に集結していたのである。

大阪城内にはキリシタン寺もつくられ、イエズス会フランシスコ会バテレンたちまでも籠城していた。

これは、秀頼が熱心なキリシタンだったからではない。

徳川との決戦のための兵力として、キリシタンを政治利用した結果である。

 

一方の徳川家康は、ヨーロッパのキリスト教には二大勢力が存在することを知る。

すなわち、ポルトガルやスパインなどカトリック国家に対して、英国やオランダなどの「プロテスタント」国家の存在である。

家康は、豊臣方についているカトリック勢力への対抗手段として、カトリックから独立をかけて戦った英国のエリザベス一世に接近し、イギリスから大砲を調達することに成功した。

 

そして家康は、英国から到着したばかりのカルバリン砲を大阪城の本丸に打ち込み、秀頼の母淀君(よどぎみ」を震え上がらせた。

この攻撃で、徳川方は有利な講和へと持ち込むことに成功し、ついには豊臣家を滅ぼしたのだった。

 

家康もまた、戦争を有利にすすめるために外国の力を政治的に利用したのであったが、

「国家統一」のための戦いが、イギリスV.Sスペイン/ポルトガルの代理戦争の様相を呈することとなり、その先にある危険を察知した。

 

ここに至って、家康はそもそも秀吉がはじめに施行したバテレン禁止令」を文字取り厳格に実行していくことを命じたのである。

家康が目指していたのは、戦のない「泰平の世」である。

しかし、それは自主独立した国家としての平和である。

膨張する植民地主義によるヨーロッパの属国になることではない。

ここに、日本は当時の世界を席巻していた白人による帝国主義的世界秩序から離脱し、鎖国へと舵をきっていったのである。

 

どの時代、どの文化においても、信教の自由は保証されるべきだ。

弾圧など言語道断、決して赦されるべきではない。

だが、当時の日本がヨーロッパの侵略から自国を守ろうとして、キリスト教を禁止せざるをえなかった政治的決断は理解できるし、この歴史的事実をもって、日本人が「野蛮」であると断罪することなど決してできない。

 

混乱した日本史の中で、一つだけはっきりしていることがある。

それは、戦国末期から江戸初期にかけての日本において、ヨーロッパ人による植民地主義と奴隷売買という悪行がなければ、

当時の日本がキリスト教を禁止する理由は存在しなかったということである。

しかし映画ではこの背景が語られることはない。

 

◼︎踏み絵は背教なのか?

最後に踏み絵についてふれておこう。

踏み絵をするかしないかが、沈黙のクライマックスであり、これが大きな主題であるからだ。

あなたが熱心にイエスを信じるものだとしたら、どうするだろう?

それはあなた個人が神の前に出て決めることだ。

僕個人について言えば、プロテスタントの立場であるから、イコンや聖像などを礼拝の対象とする信仰的見識は持ち合わせていない。

だから、これは極めて個人的な意見ではあるが、なんらかのイメージを踏みつけることが重大な過ちであるとは認識していない。

もちろん、それを喜んでするかどうかとは別問題であるが。

 

しかし歴史的不幸はなにか。

それは、沈黙の時代の日本で、カトリック信仰に入った日本人たちは、

 

「踏み絵」=「背教」

 

であると教えられたことである。

それは、バテレンたちがそのように理解したからだ。

つまり、宣教師たちにとっては、踏み絵は、背教と同じ意味を持っていたのである。

宣教師たちはそう『解釈』して、それを拒んだということだ。

それそのものは勇敢である。

この勇敢さには疑いの余地がないし、その信仰は純粋であろう。

 

しかしその彼らの姿勢が、踏み絵を踏むこと=背教であるという解釈を、日本人に強制する結果を招いた。

これこそが、バテレンたちが犯した極めて不幸な過ちであった。

彼らにとっての「解釈」が、聖書本文と同じほどの重さを持つ神の真理であるわけではない。

しかし彼らは「自分の解釈」を、素朴な日本人信者に押し付けるという致命的な間違いを犯したのである。

この「解釈を押し付ける」という間違いは、今現在も受け継がれているエラーである。

キリスト教の仮面をつけた「異端」としてプロテスタントカトリックも同意しているものみの塔という団体がある。いわゆる「エホバの証人」だ。

彼らが「輸血拒否」をすることは有名な話しで、熱心な信者の子供が輸血をしてもらえず死亡したというニュースが世間を騒がせたことがある。

彼らは聖書のある箇所をとって「輸血」=「罪」だと「解釈」し、医療行為さえ「悪」であると断罪する間違いを犯している。

その結果、将来のある子供が死亡しても、なお「喜んで」いるのである。

誰が考えても異常な選択であるが、彼らはそれが「信仰」の勝利であると理解する。

これは、「解釈」=「普遍的神の真理」であるという根本的な誤解に基づいた不幸な出来事であるが、江戸時代の踏み絵も、基本的に同じエラーによってもたらされた悲劇といえよう。

 

 ◼︎善良でも不見識

キリスト教徒に対して日本人の多くが尋ねる質問がある。

私のおばあさんは、キリストを信じないで死んだのですが、おばあちゃんはどうなったのですか?
というものだ。
 

 

その質問にこたえてアメリカ人牧師がこういうのを聞いて、僕は愕然とした。

「Technically they are in hell!!」

 

テクニカリーというのは、なかなか日本語に訳しにくい表現であるが、この場合、「自分の知る限り」的な意味でよいだろう。

あるいは「自分がしっている神学によれば」という意味も含んでいる。

このアメリカ人牧師は

 

「自分の神学的知識によれば、彼らは地獄にいる!!」

 

と答えたのである。

もちろんこれは、彼が学んだ神学のことであって、彼の神学的知識によれば、という意味だ。

 

僕はあっけにとられた。

しかし彼はそれ以外の答え方を知らなかった。

彼は善良な典型的クリスチャンホームで育った牧師である。

しかし、日本のような長い歴史を持つ国で生きた人々のほとんどは、キリスト教徒ではないのだから、それらの人々が、彼の知りうる神学的常識によれば皆「地獄」であるなどと答えることは、2600年以上の歴史を持つ日本という国で生まれ育った人間との対話として、これほどの不見識はない。

このような思考が日本人を「聖書の神」から遠ざける。

 

聖書は『誰が天に上るか、誰が地に下るかを論じてはいけない』と教えている。

宗教的な立場や神学的理解を超えて、すべての人間の魂の値打ちを真に図られ、正しく裁くことのできるの唯一の実存は、人間の思惑や、宗教的システムを遥かに超越した神のみであるのだから、人がそれを論じること自体が、そもそも驚くべき傲慢だ。

 

大事なのは、各々が心をよくよく吟味し、自分自身が「神の道」に歩もうとしているかどうかでなくてなんであろうか。

だが、日本という国に対する無理解によるアメリカ的なステレオタイプの宣教が、

どれほど多くの日本人を「神の敵対者」としてしまっていることだろう。

 

 ◼︎ロドリゴの気づき

当時の日本に話をもどそう。

日本人の信者たちは、踏み絵に際し、個人の信仰によってどうすべきかを決められる立場ではなかった。

踏むか踏まぬかは、バテレンの判断にかかっていたのである。

そして、多くの日本人が、バテレンたちが踏み絵を拒んだために死んでいった。

 

しかし、最後の最後に、主人公の神父ロドリゴは良心の呵責に圧倒される。

苦しみ喘ぐ人々はすでに棄教していたのに、指導者である彼が踏み絵を拒否していたために

許されないのだと知ったからだ。

彼が踏み絵をすれば、日本人は生きられる。

彼らを救うために、ふみべきなのか…。彼は苦悩した。

そのとき、キリストの言葉が響く。

 

「ふむがよい。私は沈黙していたのではない。お前とともに苦しんでいたのだ」

 

彼は極限状態の中で、初めてキリストの十字架の意味を深く理解し、

人知を超えた圧倒的な許しと憐れみの中で、涙ながらに、キリストの肖像の上に足をのせた。

それは、人々を救うための行為だった。

 

一見、美しくキリスト教的な物語である。

しかし、歴史は驚くほど多くのほとんど聖書的知識を持っていなかった日本人たちが、

バテレンへの「忠実さ」という徳のために、「背教者」と呼ばれるのを恐れて踏み絵を拒み命を落としたことを伝えている。

バテレンが、踏み絵=背教であると理解せず、ロドリゴのように、もっと早くに人知を超えた大きな神の愛を理解すれば、多くのものは殺されずにすんだ。

しかしバテレンたちの「勇敢さ」の解釈により、多くのものが殺されたのだ。

 

愛の神の信仰を持ち込んだバテレンたちのために、日本人が壮絶な苦しみを強いられ、そのバテレンは愛と赦しの大きさを確信して踏みをし、日本人の妻をめとり生き延びた。

 

ではなぜ神は、多くの素朴な日本人たちに、同じように語りかけ踏み絵をするように促さなかったのか。

どうして日本人は「赦される確信」を与えてもらうこともできなかったのか?

彼らは一体なんのために苦しんだというのか?

バテレンの信仰的理解のための「ささげもの」だったのでもいうのか。

 

もちろん、この結末は遠藤周作の「創作」でありフィクションだ。

だが、この作品は、神はバテレンには語ったが、日本人には「沈黙」したという驚くべき残酷な矛盾と疑問を生じさせ、これこそが聖書的な歴史観であるかのような錯覚を与えるという点で、非常に問題である。

 

 ◼︎教訓

宣教師たちは、迫害の真っ只中、命の危険を冒して日本にやってきた。

この勇気には敬意を表するし、彼らの宣教への熱意は尊敬に値する。

ひたすらに神の愛を伝えようとした純真な神父たちがいなかったなどと言うつもりはない。

しかし同時に、彼らが植民地主義の手先となっていたのもまた現実である。

 

全てのキリスト教徒は、この事実について「沈黙」することをせず、歴史の過ちを繰り返さないことを学ぶべきだ。

しかし現代においても

 

「神社やお寺にいくな」

「鳥居をくぐってはいけない」

「お祭りに参加すると汚れる」

 

などに見られるように、西洋化されたキリスト教の移植こそが神の意志であるという誤解に基づく宣教が繰り返されている。

まるで、世界最古の文明の一つである日本の歴史や伝統が「悪」であると言わんばかりだ。

 

このような「文化破壊」的なキリスト教宣教が、いかに欺瞞に満ちたものであるかに気づかないかぎり、日本人の心から、神の愛を遠ざける最大の要因の一つとして、他ならぬキリスト教自体が存在しているという悲しむべき現実が是正されることはないであろう。

 

スコセッシは、わざわざこの問題を提起したかったのか、その真意はわからない。

もしかしたら、彼はキリスト教そのものが帝国主義的であると批判したかったのかもしれない。

僕はキリスト教の衣を着た文化伝統破壊や、強制に断固反対である。

しかしこのような不幸はキリスト教に限ったことではない。

仏教伝来以降、仏教勢力の「蘇我氏」が「物部氏」を滅ぼしたし、明治新政府国家神道を重んじ仏閣を破壊した。

宗教と政治権力が一体化するとき、とてつもない不幸が起こる。

 

沈黙の時代の日本で起こったことは、世界の歴史の中で繰り返されたきた人間の誤りの1ページである。

しかしこの映画では、踏み絵にいたる歴史的背景や当時の事情は一切「語られない」。

だから僕は「語られていない側面」を書いた。

 

我々の先祖が、非文明的で野蛮であったのだなどという間違った認識に立って負い目を感じる

ことがないために。

さらには、キリスト教に限らず、個人の信仰による確信を他者に強制するという過ちを繰り返さないための一助となるために。

そうでなければ、

歴史的不条理の中で命を落としていったキリシタンたちに申し訳がたたない。

アメリカでリリースされた英語版レビューはこちら

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柳条湖(りょうじょうこ)事件85周年②

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さて、前回の続きだ。
今日は何の日か知ってるかい?
今日は中華人民共和国」建国の日
そのあたりもふくめた柳条湖(りょうじょうこ)事件をとりまく、当時のアジア情勢を説明するよ。
この事件をきっかけに、「満州国」建国への流れが加速したことは前回説明したね。
この満州国の皇帝が、映画ラストエンペラーで有名な愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」だ。彼は満州族。これ覚えておいてね。彼は満州人であり、清の王族だ。
この溥儀(ふぎ)だが、彼は満州国建国以前は、「清国」の皇帝だったんだよ。
清国最後の皇帝さ。
なんで最後かっていうとね、彼の時代に清国は滅びちゃったからさ。
清というのは、1616年に「満州」で建国され約300年間栄えた満州族による国だったんだ。
彼らは万里の長城を越えて南下。
それまで万里の長城以南を支配していた漢民族の国「明」に侵入して漢民族を打倒し、1644年に首都を北京に遷す。
そして、モンゴル、チベットウイグルにまで至る広大な中国大陸を支配する大帝国を築いたんだ。
その結果、漢民族は、清王朝のもとで、満洲王族による支配を受けたわけだな。
彼らはいつか独立を勝ち取ってやると憎しみを抱き続けた。
そしてついに独立運動の指導者が現れた。
それが孫文(そんぶん)」だ。
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◼︎回復中華運動
彼は革命運動を指導した。
辛亥革命(しんがいかくめい)っていうんだけど、この革命のスローガンは「回復中華」というものなんだ。つまり「中華の復活をめざす!」ってことだ。
中華思想って知ってるかい?
これは「自分たちが宇宙の中心」で、自分たちの文明こそが世界最高だっていう考え方。
つまりは「漢民族こそが世界一だぜ!」っていう思想だ。
「回復中華」っていうのは、
「世界一の漢民族国家を復活させるのだー!」ってことだな。
そしてついに清王朝を倒し、悲願であった漢民族による漢民族の国、「中華民国」を樹立したんだ。南京にね。
さてさて、今回のテーマである柳条湖(りょうじょうこ)事件だけど、この事件が起きたのは、孫文の後をついで蒋介石(しょうかいせき)」という人物が「中華民国」の初代総統だった時代だ。
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 1931年9月18日、今から85年前のこと。
この事件を、今の中国が日本に侵略された「国辱の日」だと宣伝してるわけだ。
この事件が発端となって、日本と中華民国は戦争へと突入していく
ここから、日本は第二次世界対戦終結までの長い15年戦争へと続いていった。

◼︎全国を掌握できなかった蒋介石
蒋介石中華民国の総統だったと言ったけどね、
蒋介石が、それまでの清国の領土をすべて支配したわけじゃない。
およそ300年も続いた清王朝が消滅したことで、国内は内戦状態に突入したからさ。
南京政府や北京政府、あるいは広東政府などが乱立した。
四川省だけでも500回も軍属内戦があったんだから、全国的に悲惨な状態に陥っていた。
それぞれが、「俺様こそが真の支配者だ!」と権力争いを繰り広げ、漢民族同士で殺しあった支離滅裂の時代だ。
だからね、清朝が有していた広大な領地を統一支配した「中華民国」という強力な国家は、実は存在していなかったというのが歴史の真実なんだ。

で、今回のテーマ柳条湖事件の舞台となった満州だけど、ここは張作霖(ちょうさくりん)という軍属が支配した。
そんな混乱の中華民国情勢の中、柳条湖(りょうじょうこ)事件が起こったわけだな。
この事件をきっかけに、日本はすでに圧倒的な存在感を見せていた満州を支配下に置いた。
そして満州は大陸で最も安全な場所となった。
だから、前回言ったように、毎年100万人もの中国人が流入したわけだよ。
その後、日本は清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀をかついで、満州国を建国させる。
冒頭で言ったように、溥儀は満州人であり、清の王族だ。
清というのは、もともと満州で建国されたってことはすでに言ったよね。
だから満州国というのは、清王朝の復活だったと言ってもいいね。
この満州建国のために、日本は尽力したんだな。

我こそが中華民国の総統だと自負していた「蒋介石」が怒ったのは言うまでもない。
満州人は漢族の敵なんだからね。
敵に味方した日本も敵だ。
日本と中華民国の戦争、つまり「日中戦争」というのは、そういう側面も持っていた。
大事なことを言うけど、日本が戦争をした相手は「蒋介石」が率いる中華民国軍だ。
中華人民共和国じゃない。
これ、絶対覚えておけ!というポイント。

◼︎ところが。。。。
日本は第二次世界対戦に負けてしまった。
そして、満州利権の全てを失ってしまったんだ。
日本は大陸から完全撤退。
すると大陸でのパワーバランスが崩れて、大陸ではとんでもないことが起こった。
さんざん蒋介石と内戦を繰り返してきた毛沢東率いる「共産党軍」が、権力を掌握してしまったんだ!!
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蒋介石は劣勢に立たされ「台湾」に逃げていった。
これが今の台湾政府だ。
台湾というのは今も「中華民国」だよ。
大陸に居座った共産党
これをアメリカはじめ各国が国家として承認したもんだから、その結果、共産主義の国「中華人民共和国」が誕生した。
これが今の中国だ。

つまり、中華人民共和国というのは、蒋介石と敵対してきた「中華民国」の敵だ。
中華民国にとっても、中華人民共和国は敵だ。
これが複雑な今の「中台関係」というわけだ。

さて、そろそろ今回の結論。
中国の共産党政府は、建国以来、漢民族による支配と共産主義思想による支配を完成させるために、莫大な数の人々を虐殺虐殺し続けている。

文化大革命と称して、国内で中国人8000万人!!!を虐殺したばかりでなく、チベット人120万人、 ウイグル人170万人の虐殺してきた。

前回も言ったように、もともと万里の長城の外側は、漢民族の敵だったし、そもそも中国じゃない。けれども、それらの地域を侵略して、自国領土とし少数民族同化政策を打ち出して、彼らの文化や伝統を破壊しているんだ。
まるで、はじめから存在していなかったかのようにね。
そして今や満州族は、言語も文化も、ほぼ完全に失われて滅亡してしまった。
そして、中共政権は第二次大戦後に獲得した満洲を「東北」と呼ぶ。
そして、チベットウイグルとともに「古来から中国の絶対不可分の固有領土」などと言っているんだ。
もうわかるよね。
これは嘘なんだよ。
彼らが満州を実行支配してきた歴史は存在しない。
だから漢民族の彼らが、9月18日を「恥辱の日」と呼び、日本を非難する権利はどこにもないということだ。

『柳条湖(りょうじょうこ)事件』①

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あっという間に9月も終わるねー!!
時がたつのは本当にはやいものだ。
ところで、今年の9月18日は、満州事変の発端となった『柳条湖(りょうじょうこ)事件』から85周年だったんだよ。
ニュースにならないから、ほとんどの人が意識もしないで過ぎ去っていった。
でも中国では違う。
毎年この日、「国の恥を忘れてはならない日」として反日感情が高まるらしい。    
今年は、遼寧省(りょうねいしょう)にある瀋陽(しんよう)市公文書館が、この事件にまつわる公文書14部を初公開した。
これには、日本による警察機関の違法設立、情報収集、土地資源の略奪、組織的な植民といった侵略活動の内容が含まれているらい。
つまり、日本の侵略の歴史を思い出せ!とういことだよね。
もちろん、これは中国が言ってること。
 
じゃあ柳条湖(りゅうじょうこ)事件って何かといえば、これは、旧満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市(しんよう)近くの柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件だ。
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 これが起こったのが1931年9月18日だった。
さて、これが起こったのは「旧満州」だ。
ここが重要!!よく覚えておいて。

◼︎夢の満州国
この事件がきっかけで、日本の支援によって「満州国」が建国されていく流れとなった。
満州国っていうと、おじいさんやおばあさんが「戦後、満州から逃げるように引き揚げてきた」という話をたくさん聞くから、まるで悪夢のような国という印象を持っている人たちが多い。
でもね、この満州国は、日本の近代技術の粋を集めた超近代国家だったんだ。
満鉄の開発した超特急あじあ号は最高時速150キロで広大な大陸を疾走した。
当時の日本で最速の列車は時速70キロ。
あじあ号」は、夢の超特急として世界の注目を集めたんだ。
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満州には、東洋で最初の本格的な高速道路や、水洗トイレまで備えた近代都市だったんだよ。
部分的には、日本ををも陵駕する先進工業国家が、ユーラシア大陸の東北端に姿を現し、たった13年半で幻のように消えていった。
そのまま発展を続ければ、アジアのアメリカ合衆国になったとさえ言われている。
満洲国は、日本人の情熱と技術力が生みだした奇跡の国だったと言ってもいい。
そして、これが重要なところなんだけど、この国は、当時の中国大陸に住んでいた人々にとっても希望に満ちた国だったんだってことだ。
ここがポイント!!
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満州事変直前の1928年、米モルガン財団代表ラモントは、オールズ国務長官が、すでに日本が支配力を強めていた満州を視察した。
そして、このように書いている。  

『自分の観たところでは、今日満洲は全支那で殆ど唯一の安定せる地域である。
日本は軍事的意味に於いてのみならず、経済的にも満洲を発展せしめつつある。
日本がかくするのは、満洲に赴く少数の日本人開拓者の利益のためではない。
実際の話、満洲開発は中国人の利益になっているのだ。
不安定な戦争状態が中国の広大な部分に拡がっているため、今や中国人は、他の何処に於ても受けねばならぬ匪賊行為や略奪から逃れるために、何千人と云う単位で南満洲に流れ込みつつある』
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この傾向は満洲国成立後も続いて、満州事変後には3千万人だった人口が、10年後の1941年には、4,300万人に急増したんだ。
毎年100万人以上もの民衆が、中国本土から万里の長城を越えて、満洲国になだれ込んだというわけだ。
人々は、内乱と飢饉の中国本土よりも、満洲国を望んだんだよ。
大量の人々がなだれ込んできたというのは、その国が「安定」していたという事実を物語っているね。
今は、シリアから難民が続々とEUにおしかけてるよね。
難民というのは、国から逃げてくる人々だ。
自国が不安定で、命の危険もあるから逃げ出すしかない人々が難民だ。
満州国の人国はたった10年で1,400万人も増えた。
これは、日本の全面的支援によって建国された満州国が、いかに安定していたかを物語っているわけだ。
中国はこの素晴らしい国を日本の侵略の結果であり、屈辱なのだと世界に宣伝しているんだ。
9月18日は中国が侵略された屈辱の日なんだとね。
その記念日まで建っている。

◼︎歴史捏造!! 
でも、ちょっと待った!!
これは全くでたらめなんだよ。
それを如実に物語る証拠がある。しかも「世界遺産」だ。
それこそが万里の長城だ。
これは、旧満州国があった地域、つまり今の中国東北地方からの諸民族侵入をふせぐために漢民族が作った壁なんだからね。
満州国というのは、万里の長城の外側、つまり北方民族の国だったんだ。
彼らは満州族
今の漢民族とは違う。
壁の外側は、古来からツングース系やモンゴル系などの遊牧諸民族が興亡を繰り返した地域なんだ。
有名なのはチンギスカンだよね。
満州族というのは、そのような北方系諸民族の一つだよ。
万里の長城は、明の時代(みん1368年 - 1644年)に作られたんだけど、「明」は漢民族の国だ。
明にとって満州族は敵であり脅威だったんだ。
だから壁を作ったわけ。
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それでも、北方の遊牧民族は武力と機動力で、長城を越えて漢民族を征服してきた。
北魏(ほくぎ)、遼(りょう)、金、西夏(せいか)、元、そして清。これらは、北方民族が支配した国だ。
 歴史的に、満州地域を漢族がずっと支配していたという事実はないんだよ。

だからもともとずっと中国だったんだと言えない。
でも今の中国は「旧満州地域は昔から永遠不可分の領土だ」と宣伝している。
広大なユーラシア大陸にはいろいろな国が興ってきた。
中国の歴史は、漢民族の歴史であるという印象は、必至でそう思わせたい中国のプロパガンダで史実ではない。
実際、漢民族が中国を支配した時代は、その歴史の約1/4程にしか過ぎないんだ。

それどころか、異民族に征服され、統治されることでその異文化の恩恵を受けて漢民族は進歩してきたんだよ。
これは、中東やヨーロッパなど、陸続きの場所では普通の歴史だよね。
中国4000年の歴史なんていうフレーズに惑わされてはいけないよ。
だから、そもそも、漢民族の敵であった「満州族」の国の建国に日本が加担したからといって、今の中華人民共和国から「侵略」だとか「屈辱の日」だと言われる筋合いはないんだよ。

そもそも、繰り返すけど、
満州民族こそ、壁の外側の異民族で、
彼ら漢民族の敵であり、
脅威であり侵略者だったんだから。
 
さらに言えば、今の中華人民共和国は、『柳条湖(りょうじょうこ)事件』の時は
存在もしていなかったんだからね。
この辺りの流れは、次回。

天皇陛下お気持ち表明 200年ぶりの上皇誕生か?


お気持ち表明

2016年8月9日

◼︎天皇陛下が「お気持ち」を自ら国民に伝えるという異例の出来事が起こった。
憲法上問題となり得るご自身の「退位」について、何を語るのかと固唾を飲んで聞き入った。
71年前、敗戦を告げる玉音放送を、当時の人々がどのような思いで聞いたのかと思いをはせる瞬間だった。
時代が大きく動きていることを誰もが実感しているだろう。
僕たちはまぎれもなく「歴史」の目撃証人なのだ。
もし今上天皇が譲位(じょうい/生前退位のこと)されると、1817年に光格天皇が譲位して以来約200年ぶりとなる。
今上天皇は、この光格天皇の直径の子孫だ。
実は、この光格天皇の働きがなかったら、今の皇室は存在していなかったかもしれない。
光格天皇が日本史の中で果たした役割はとてつもなく大きい。

◼︎天明の大飢饉の湧き上がった御所御千度参り
ときは天明、世に言う「天明の大飢饉」が起こった。
1782年(天明2年)から8年も続いた「江戸4大飢饉」の一つだ。
わずか数年の間に92万人以上も死者を出した。
疫病も蔓延し長く暗い日々が続いた。
飢饉が最も酷かった東北では、死んだ人間の肉を喰らって飢えを凌ぎ、方々に、肉がきれいになくなった白骨死体が山のように積み上げられていたというのだから、その悲惨さは想像を絶する。
そんな絶望的な時代の真っ只中、天明7(1787)年6月7日のことだった。
京都の御所の周りを歩く人々が現れた。
どこからともなく、集まってきた人々の数は、あれよあれよという間に膨れ上がり、みな祈りながら御所の周りを廻り始めたのだ。
百度参りという民間信仰がある。
人々は祈りのために寺社に詣でて、境内の一定の距離を、祈りながら百度往復する。
その信仰にならって、人々が救いを求めて祈りの行進を始めたのだ。
しかし、その場所が神社でもお寺でもなく、天皇がおられる「御所」だったのである。
最初は数人だった。
ところが、3日後には、その数は1万人にまで膨れ上がり、10日後には7万人もの人々が御所の周囲を祈りながら巡り続けた。
そして、人々は紫宸殿(ししんでん/御所の正殿)に向かって手を合わせ必死に祈った。
これが『御所御千度参り』である。

◼︎立ち上がった「光格天皇
なぜこんなことが起きたのだろう。
それは、当時の人々が政府を見限ったからである。
米価が高騰し、餓死者が続出しているのに、幕府は効果的な救済策を講じることができないでいた。
京都でも、人々は京都所司代京都町奉行所に繰り返し嘆願した。
ところが、役所はいっこうに動かなかったのだ。
5月には、怒った大坂の町民が数十軒の米商人の家を襲う事件が起きていた。
将軍のお膝元、江戸でも5月19日からの5日間、数百人の百姓が竹槍で武装して騒ぎを起こしていた。
飢饉が最もひどかったのは東北だったが、その影響は関西、そして京都にまで広がっていたのだ。
日本中で餓死者が続出しているのに、具体的で大規模な救済策を講じることのない幕府に、人々は失望し、国難の時代に対応力を欠いた幕府には、もはや救済する力がないと悟った。
幕府の威光は完全に失墜していた。
そんな中、人々が頼みにしたのが「皇室であり天皇陛下」だったのだ。
人々は救いを求めて、天皇にすがったのだった。
それが御所千度参りだった。 
このときのときの天皇こそが光格天皇、若干17歳。 である。

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若き光格天皇は、速やかに行動した。
天皇京都所司代(京都の治安維持部署)に対し窮民救済に関する申し入れをすよう申し入れた。
具体的な方策として、賑給(しんごう/古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った儀式)を行うことや、関東から「救い米」を差し出して、民を救済できないかという申し入れだった。
しかし、当時天皇が政治に関与することは禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』によって違法とされていた。
これは、徳川家康が作った法律で、天皇及や公家に対する幕府の政治的な優位性を確立するために定めたものだ。
これにより、朝廷が直接江戸幕府の政治に口を出すなどという事は御法度だったのだ。
江戸時代が始まってから、天皇が政治に関与したことは一度もない。
現代と同じである。
それにもかかわらず、御法度を超えて踏み込んだ行動をとった若きリーダーこそ「光格天皇」その人だった。

◼︎皇室は国民とともに
結果として幕府は京都御所に詰めかけている人々への「救い米」放出を決定した。
天皇の思いが、幕府を動かし、具体的な救済策が講じられたのだ。
もちろん、若き天皇の背後には 後桜町(ごさくらまち)上皇の存在もあった。
上皇は押し寄せる人々に3万個のリンゴを配給している。
天皇上皇も、御所千度参りを歓迎していた。

 

幕府が効果的な救済策を何ら講じることができなかったとき、皇室は人々に寄り添っていた。
その心は今上天皇にまで、確かに受け継がれている。

中村屋のカレーを食べればバングラディッシュがわかる!

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今月1日(日本時間2日未明)にバングラディッシュの首都ダッカで起きたテロで7人の日本人が犠牲になった。
日本人です!撃たないで!!!
そう叫ぶ声は無視され、無残にも首を切られたり、銃で撃たれたりして殺されたという。 
ほんとーに胸がいたむ。

ネットでは、
「日本人だと言えば殺されないと思ったのか」とか、
「かえってイスラム教徒でないことを公言するようなものだから愚かなことだ!」

など、様々な意見が飛び交っているよね。
報道で多くの人が知ったと思うけど、バングラディッシュは大親日国家の一つ。
毎年8月6日には、バングラデシュ中で原爆被害者追悼行事が行われるほどなんだよ。
JICA(国際協力機構)を通して現地に貢献している人なら誰もがそれを知っている。
だから、犠牲になった方がとっさに「私は日本人!」と叫んだことは、そのお国柄を考えれば、当然のことだったかもしれない。
今、日本人と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上にバングラディッシュの人々が心を痛めている。
ネットにも「日本の皆さん、ごめんなさい、許してください」と悲痛な叫びが溢れている。
それにしても、日本とバングラディッシュの歴史を考えると、バングラディッシュという国で「私は日本人、撃たないで!」という叫びが虚しく地に落ちたことの意味はとても重い。
親日国であるバングラディッシュと、日本を結ぶ魂の道を紐解いてみたい。

●そっくりな国旗
バングラディッシュの国旗のデザインは日の丸にそっくりだ。
パラオ国旗と合わせて日の丸三兄弟などとも言われているよ。
2014年、シェイク・ハシナ・バングラディッシュ首相が来日し、5月27日に早稲田大学で行われた講演で、国旗制定秘話を明かした。
シェイク首相は初代バングラディッシュ大統領の娘だ。
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彼女はこういった。
『初代大統領のラーマンが独立に伴う1972年の国旗制定時に日本に魅せられ日の丸のデザインを取り入れた』

多くの犠牲によってついに勝ち取った独立。
その国を表す「国旗」を、日本にならって日の丸そっくりにしたなんて、そこにある日本へのリスペクトはどれほ大きいんだ‼️
それほどまでに、初代大統領が日本に魅せられたのは、一体どうしてだろう?

●謎を解く鍵が新宿にある!
それは中村屋のカレー』なのだああ!
中村屋には看板メニューがある。
それが、中村屋が昭和2(1927)年に発売した「純印度式カリーライス」
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このカリーライスを考案したのは、ラス・ビハリ・ボースというインド人である。
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 彼は明治19(1886)年インド ベンガル地方生まれのインド独立運動家だ。
知ってのとおり、当時インドはイギリスの植民地だった。
インドは1765年からイギリスの植民地だったんだけど、それ以前の1510年からポルトガルの植民地だった。
ヴァスコ・ダ・ガマ以来、実に400年以上も白人国家によって搾取されてきたんだ。
ビハリ・ボースは、民族自存のために、
イギリスからの独立運動に身を投じる独立運動の先駆者だったんだ。
そして、このボーズ、大正4(1915)年6月8日に東京にる。
彼は箱根で、日本に滞在していた中国の革命家孫文を訪ね
たんだ。当時、日本は多くのアジアの独立運動家たちに影響を与えていた。
いや実質的に、日本がアジア諸国の独立運動家たちを育てたと言っても過言ではない。
孫文や、ビルマミャンマー)革命運動かバー・モウも日本に亡命したし、蒋介石も日本で学んでいる。
そしてまたビハリ・ボースも日本にやってきたといわけだ。
日本が日露戦争に勝利して以来、植民地化されていたアジア諸国にとって、日本こそが希望の星だったんだ。
日露戦争こそ、1500年代から続いてきた白人による有色人国家支配の構図に終止符を打った歴史的大転換点なんだよ。
これは世界が認めることだから絶対におさえておこう!
他ならぬ孫文も、日露戦争での日本の勝利についてこう言ってるよ。
これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア民族は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至った。
大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた。
7月28日に孫文を訪ねたビハリ・ボースは、独立のための戦いを熱く語り合った。
そして彼は、武器をインドに送るため上海に渡る。
東京在住の同志たちが多量の武器を上海に送り、それを秘密裏にインドに運ぶ。
イギリスに知られたら大変なことだ。
すべては極秘。
ところが、この船がイギリスに見つかってしまう。
そして、反英活動家ボースが密入国していたことが発覚してしまったんだ。
これはまずいと、ボースは追及の手を逃れ、なんとか日本に舞い戻る。

と・こ・ろ・が・だ…
当時の日本はイギリスと日英同盟を締結していた。
実はこれはすごいことで、天下の大英帝国が、世界で初めて結んだ黄色人国家との「同盟関係」。
それが日英同盟なんだよ。
それほど、日本は世界の強国となっていたんだ。
だから日本としては、反英活動家を野放しにしておくのは、同盟国としてまずい。
そこで、ボースに国外退去命令を下したんだ。
大正4年の11月28日のことだ。退去期限は12月2日。
いよいよ期限を翌日に控えた12月1日の夜、ボーズは官憲の目を眩ますために変装して逃亡する。
そして、逃げこんだ先が『中村屋』だったんだ。

◼︎中村屋の魂
中村屋は、明治34年(1901年)、本郷にパン屋として創業した老舗だ。
この中村屋相馬夫婦は偉かった!!
それから3カ月間半も、命がけでボースを匿ったんだから。
これは日本政府に背くことだ。
でも、相馬夫婦は、独立の志に感銘し、同じ有色人種として想いを共有した。
日本だって、ロシアという白人国家の脅威の前で、決死の覚悟で戦った国だからね。
中村屋を離れて後、ボーズは17回も隠れ家を転々としながら、逃亡生活を続けたわけなんだけど、このとき、彼を支えたのが相馬夫婦の長女「俊子」だったんだよ。
いいぞ俊子!!

彼女はボースとの連絡役を務め、心身ともに極秘裏に彼を支え続け、なんと大正7(1918)に二人は結婚したんだ!
まさに禁断の恋ってやつだな。
大正8(1919)年、第一次世界大戦が終わり、パリ講和会議によってボースに対するイギリスの追及がついに終わる。
ボースは晴れて自由の身となり、日本に帰化する。
そして一家は、中村屋の敷地内に新居を建てて生活を始めたんだ。
ばんざーい!!
ところが、なんと翌年、俊子は二人の子を遺して、肺炎で亡くなってしまうんだ。
26歳の短い生涯だった。
ボースの悲しみはどれほどだっただろう。
彼は子供たちを育てながら中村屋の役員に就任し、相馬夫婦との深い絆の中で日本に恩返しをするために一生懸命働いたんだよ。
そんな日本での生活で、たった一つ彼を悲しませていることがあったんだ。
それが、当時日本に存在するカレーがまずいことだった。
「なんじゃ、こりゃ!こんなもんをインド人は食べてないぞお!!」

彼はそう思っていたんだね。
そしてなんと、インド式カリーを看板メニューにした「喫茶部」を作ろうじゃないか!と相馬夫婦に提案するんだ。
そうして始まったのが、今も新宿に存在する中村屋なんだよ。
そして、ビハリ・ボースが伝授したインド人の味、それこそが「純印度式カリーライス」なんだ。
だから、中村屋のインドカリーはインド革命家の魂の味だ。

◼︎中村屋のカレーはベンガル人の味
さて、彼はインドの革命指導者だと言ったが、前述したように、彼はベンガル地方の出身。
つまりベンガル人なんだ。
ベンガル語を話し民族意識がとても強い民族。
インドがイギリスから独立した後、彼らはさらに民族自立のために自分たちの国を作った。
それがバングラディッシュだ。
バングラディッシュとはベンガル人の国という意味なんだよ。
だから中村屋の純印度式カリーライスこそ、
独立のために戦ったバングラディッシュの魂の味なんだ。
さあ、今から中村屋のカレーを食べて、
ベンガル人の魂の味を満喫しよう。
 
つづく

トップリーダーの条件

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俺様はトップリーダーなのだ〜!

と息巻いていた舛添都知事が、議会でも「せこい」と非難される異常事態が発生している。
もともと舛添さんを支持していないし、投票もしなかったけれども「まさかここまでか!!」と思う今日この頃だ。


トップリーダーに求められるのは自浄能力だと思う。
自浄能力とは、自己修正能力だ。これは、自らの中にある悪や過ちを積極的に正していこうとする力のことだ。

人は誰もが間違いを犯す可能性があるからね。
正しいと信じてやったことでも、それが間違っていることなどざらにある。
だから、間違いを恐れていては何もできない。

大事なのは、間違いを発見したとき、それを正そうと思えるかどうかだ。
これこそ、権力の座についている者が持ち合わせているべき最も重要な資質の一つではないかな。


でも、自分の中にある惡に気づかなければ、どうしようもない。
だから、自己修正ができる人は、自分の中にチェック機能が備わっている人だということになる。
つまり、自分の歩むべき道の是非を判断する基準があるということに他ならない。
これがなければどうにもならないよな。

多くの人は刹那的な欲求により行動を決める。
やりたいかやりたくないかが行動選択の基準だ。
正しいか正しくないかは二の次になってしまう。
これじゃいけないよなー。

◼︎古代ユダヤのトップリーダー 

今から3000年前の古代イスラエルに、ダビデという王がいた。
イスラエル第2王朝の王で、イスラエルを統一したヒーロー。
日本でいえば太閤秀吉だよ。
エルサレムを首都に定めたのはこの男。
古代社会のトップリーダーだった。

彼は羊飼いとして育ったんだ。
でも、宿敵であるペリシテ人との戦いで
武功をあげ一躍に有名になった。そしてついには王に上り詰めた。
イスラエルドリーム!!
勇敢な武将であっただけでなく、イケメンで、おまけにミュージシャンだった。
彼は全てを与えられた『時の最高権力者』だった。
キングダビデっていう映画があって、リチャード・ギアダビデ役をやったね。
文字どおりイケメン。

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ダビデ王は多くの詩を書き、琴をかき鳴らして歌った。

メロディーは失われたけれども、彼の書いた歌詞が旧約聖書の「詩篇」に記録されている。

彼は旧約聖書の中で最も賞賛されている人物の一人。
彼の詩から、彼の資質を見てみたい。


詩編119:59 私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。
詩編119:60 私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。


この箇所から三つのポイントをあげたい。

①自己吟味の習慣
彼は大事なことを知っていた。
それはね、自分は意識しないと、間違った方向へ進みやすいということだよ。
人は気を抜くと気分の赴くままに生きる傾向がある。
だから彼は常に『自分の道を顧みる』ことを怠らなかった。
これは、間違ったらどうしようとビクビクすることではない。
自分の歩みがあるべき状態ずれていないかを常に吟味することだ。


②自分ではない判断基準
顧みるだけでは十分ではない。
彼には『守るべき道』があった。
彼が大切にしていたのは「あなたのさとし」なんだね。
あなたとは「神」のことを指している。
詩篇というのは、古代イスラエル人が神に向かって歌った賛美歌なんだよ。

彼は「こう生きるべき」という姿をはっきりと自覚して生きた。
それは神の言葉に教えられ、神の思いに同化することを願う道だった。
彼は、自己中心的で、エゴイスティックな道ではなく、浮世のしがらみを超えた高い道に生きることを心から願った男だったんだな。

別の言い方をすれば、彼には自分の歩みの善悪を判別する基準があったということだよ。
いくら自分の歩みを顧みても、それが是が非かを判断する基準がなければ不正や悪を発見することさえできないからね。

自己修正能力が正しく機能するためには、自分発ではない客観的な基準がなければならない。
ダビデは、高い神の道に生きる道、神の言葉をその基準として生きていた。
これが彼にとっての「ぶれない指針」だった。
それは彼の信仰からほとばしり出る情熱だったんだ。

あなたには、判断の基準がありますかあ?
それは自分の利益や自分の欲求に起因するものではない必要があるよ。
だって、自分にとって都合が悪く、自分にとっては不利益であっても、積極的に修正していくことを動機づけする基準でなければならないからね。
 

③先延ばしをしない
さて、彼はこう歌った。
私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。

彼は速やかにそれを行った。
修正すべきことを見つけたら、速やかに行動に移したんだ。
誤魔化しや言い訳の為に時間を無駄に使わなかった。
間違えを恐れるよりも、間違ったら速やかに正す姿勢が必要だ。

この三つを舛添さんは持ち合わせていないと思われる。
残念だなあ。

ダビデは、最高権力者でありながら、その座に慢心することなく、さらに上の権威を認めて生きた。
自分を「お山の大将」とすることを許さなかったんだ。
このような人間がトップリーダーだったらどんなにかいいだろう。


◼︎日本のダビデ
日本にもダビデのような人物がいたよ。
明治天皇。彼もまた多く詩をのこした。
それは御製(ぎょせい)と呼ばれてるよね。
一つだけ紹介したい。


目に見えぬ 神に向かいて 恥じざるは
        人の心の まことなりけり


かつて天皇として日本のトップの座についていたが、彼もダビデと同じように、神の道を求め、神の前に恥じない心で生きることを願った。

日本は古来から神の道を重んじる国だったはずだ。
私利私欲から目をそらし、高い道に自分を合わせようとする心を失ってはならないよね。でも、それは宗教とは異なる。

いくら宗教熱心でも、自浄能力が発動されないとしたら、
それは虚しい。
求められる姿勢は、まさに明治天皇の詩に込められている。

トップリーダーであるなしにかかわらず、他人の失敗から何を学び、どう活かしていくかが大切だと思う。

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自浄能力。
自分自身も襟元を正し、
精進していきたいと思いを新たにしている。

俺はアジアンブラックだ!モハメド・アリ逝く!!

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2016年6月4日
 · 
◼︎さらば、史上最強のボクサーモハメド・アリよ!
6月3日、元ヘビー級王者モハメド・アリが逝った。74歳だった。
元ヘビー級王者で、誰もが知る20世紀の英雄だ。
しかし彼は、ボクサーとしてだけでなく、人種差別とも戦った英雄でもある。1960年のローマオリンピックで、アリは見事金メダルをとった。
しかしアメリカに帰国すると、黒人だからという理由でレストランへの入店を拒否される。
怒りと失望の中、彼は金メダルを川に投げ捨てた。
18歳だった。
黒人として生まれたという不条理を背負い、彼は人種差別との戦いへと闘志を燃やしたのである。

◼︎アジアンブラックの誇り
1966年、ベトナム戦争について記者たちが質問したときのことだ。
インタビューに答えた彼の言葉は、世界中を駆け巡った。
彼は言った。
”Man, I ain't got no quarrel with the Viet Cong!” ベトコンと争う理由は  
  一つもない!
後のインタビューで、彼はこのときの発言について説明している。俺は、ただ白人による有色人支配を持続させるために、わざわざ1600キロも離れた場所の貧しい国民を殺すことに手出すけするためにのこのこ出かけていくことなどしない。
今こそ、そのおぞましい悪は終わりを迎えなければならないのだ。
俺は自分の信仰に背くようなことはしない。
正義と自由、そして平等のために戦っている彼らを奴隷とするための道具と成り下がり、自分自身や我が同胞、そして信仰に背くようなことなど絶対にしない。
彼にとってベトナム戦争は人種戦争だった。
だからアメリカ人でありながら、公然とアメリカ政府を批判し、兵役につくことを拒否したのだった。
彼はマルコムXで有名なNaiton of Islamのメンバーだった。
キング牧師は無抵抗を貫いたが、彼らは断固戦うように主張した。
アリは自分のことをアジアンブラックと呼んだ。
”I am not a Negro. . . I am Muhammad Ali. . . And I am an Asiatic black  
  man!”
『俺はニグロじゃない。モハメッド・アリ・・・俺はアジアンブラックマン
   だ!』

◼︎日本こそが模範
彼にとってアジア人、とりわけ日本人は尊敬の的だった。
彼のメンターは「Nation of Islam」の指導者であるイライジャ・ムハンマドだ。
彼もまた子どもの頃から黒人に対する極度の差別と暴力の中で育ち、やがて黒人解放運動に身を投じていった人物だ。彼らは、人種差別の中で育ったのだ。
そんな彼らにとって、日本人は有色人種のヒーローだった。
それは、日本が日露戦争に勝利したことによる。
大航海時代以来、世界を植民地化してきた白人による世界支配の歴史を終わらせたのは、日本だったのだ。
有色人種でも白人と戦い勝利することができる!
これが、日露戦争が世界の夕食人種に与えた希望だった。
イライジャ・ムハンマドにとっても、日本は模範であり希望だった。
だから彼は日本人についてこう発言している。
日本人は我々黒人の兄弟である!
1942年8月16日の演説においてである。
NY出身の牧師ジェイムズ・ボッディーはNYエイジ紙に投書してこう言った。
 
『最も進歩したアジアの黒人、我が同胞に日本人よ!』
 
マルコムX大日本帝國軍に入隊したいと切に願っていた。
差別を受けながら生きてきた黒人解放運動家達の活躍の背後に希望の星としての日本がいた。
だから、アリも同じように日本を尊敬し、日本人の姿に希望を見出し、
人種差別というリング外での戦いに命をかけたのだ。
あまり知られていない歴史の一面だ。
 
人種差別との戦いについてのシリーズはこちら↓